足利尊氏(高氏)という男

2/3
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ
 何故なら、それは、この同じ年、尊氏は朝廷の為に叛乱軍(旧鎌倉幕府勢力)と戦っているのである。それが今度は、その朝廷側(官軍)と戦っているからだ。  大敗し、京へ逃げる新田軍を逐う形で、尊氏と足利軍は一気に西上した。  翌建武三年(一三三六)、尊氏は入京したが、今度は奥州から来た北畠顕家と合流した新田、楠木正成ら連合軍に追われ、そのまま西に逃れ、一時九州まで退避した。  そして五月に九州の有力武士団を味方にして大軍を率いて東上して、湊川(兵庫県神戸市)で朝廷側の新田義貞、楠木正成を倒して、ようやく再入京した。  誰もが、『此度は、足利殿が天下を獲る』と思っていた。    すると尊氏は、己の隠居と引き換えに朝廷側に和議を申し入れ、謀叛人の汚名を落とし、さらに後醍醐天皇とは別系統の豊仁親王を光明天皇として即位させた。  謝罪し、隠居し、その上で“新たな政権”を立てたのだ。  同年十一月に『建武式目十七条』を制定させた。室町幕府の始まりである。  この後、後醍醐天皇は大和吉野に逃げて、「己(の系統)こそ正統な帝である」と主張した。  これから南北朝の争乱が始まった。  尊氏が帝の別統を立てたからである。  出家、謹慎したり、そうかと思えば撃ち出したり、退避したり、隠居したり、帝を退位させたり、別に立てたり、と尊氏という人物はその心情が計れない。  天下を獲たいのか、手放したいのか、謝りたいのか、その行動が一致しない。他人から推し量りにくい人物だった。  足利家は元々源氏の一門ながら、尊氏は十五歳で幕府を通し、朝廷から従五位下、治部大輔を北条家以外で叙任し、北条一族から正室(登子)を得ていた。幕府から相当に優遇されていたのだ。  その尊氏(その頃はまだ高氏)は、後醍醐天皇が挙兵(正慶二年=一三三三)すると、幕府からその鎮圧に派遣されるが、妻子が鎌倉にいるにも関わらず、戦地で朝廷側に寝返り、さらに諸国の御家人に加勢催促状を出して、倒幕を促し、京にある幕府の出先機関、六波羅探題を倒した。  幕府より任官され、親類を娶り、幕府の指示で討伐に向かいながら、それから幕府に謀叛する、というとんでもない事をしていた。  この直後、上野国御家人の新田義貞らにより鎌倉が攻められ、これで鎌倉幕府は滅亡した。  新田義貞は尊氏に呼応したのである。その義貞が後に尊氏を追討することになるのだが。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!