今川家の苦闘

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今川家の苦闘

 今川氏は先の南北朝の騒乱で当主頼国以下、弟の頼周、範満が相次ぎ亡くなり、五男の五郎範国が惣領となった。その範国は南朝北畠軍と岐阜青野での合戦で、尊氏を大いに助け、その褒美に遠江の守護に任じられた。  その頃の遠江は南朝勢力の強い土地であり、西遠江の井伊遠江介行直がその中心だった。   建武四年(一三三七)七月、遠江三方原で今川(北朝)と井伊(南朝)の戦いがあり、翌暦応元年(一三三八)、今川範国は北畠顕家、義良親王、宗良親王らと美濃で戦い、その功により、範国に駿河守護も追任された。  この範国が駿河今川氏の初代である。  そして、この今川範国への駿河・遠江守護任用は、幕府(尊氏)から、当地の南朝勢力の掃討を任せた形になった。  今川氏の遠江駿河平定戦は熾烈だった。    井伊行直は後醍醐天皇の息子、宗良親王を居城の三岳城(浜松市北区)に招き、東に大平城(浜北区)、西に千頭ヶ峯城(西区)、北に田沢(天方)城、奥山城(ともに北区)、南に鴨江城(南区)を置いて、駿河から来る北朝(幕府側)の今川氏に徹底抗戦の構えを見せていた。  この他、駿河でも南朝方に属する武士団は多く、峻険な山城を築き、山岳部でのゲリラ戦を敷いた。  これに範国は戦い続けた。山岳戦と籠城する南朝方を攻めた。  尊氏から拝領された駿河と遠江だが、今川家からすれば血泥を上げて切り取らなくてはならない闘争の地であった。  この時の今川家の内部には、足利将軍家に不満を持つ者はいなかった。  今川家は、鎌倉幕府の有力御家人足利義氏の子、吉良長氏の次男国氏が三河幡豆郡今川荘に移り、今川姓を名乗った事から始まった。  範国は、この国氏の孫である。  「足利なくば、吉良が継ぎ、吉良なくば今川が継ぐ」と言われた名門武家であり、その自尊心は高く、元は土豪に近いだけに、自家を引き上げてくれた足利将軍家への恩は計り知れない。  範国は、駿河の南朝勢力を掃討し、どうにか周辺の土豪を収めた。そこに拠点を置いた。  暦応二年(一三三九)七月、駿河の範国は本格的に遠江征伐へと動く。  南朝方の井伊討伐と言って良い。    その防衛線を破りにかかった。  七月に鴨江城が落ちた。  十月には千頭ヶ峯城も落ちた。  翌暦応三年(一三四〇)、井伊行直は主城の三岳城を捨て、宗良親王とともに大平城に逃げた。  八月には、その大平城も落ち、宗良親王は信濃へ落ち延びた。  しかし、四年後、親王は駿河安部城に入り、その峻切な城を盾に幕府軍(北朝)に抗戦した。これとの交戦に範国と今川家は苦慮する。  やがて後醍醐天皇が亡くなり、北畠顕家、新田義貞、楠木正行などの名将らもなくなると、南朝勢力は弱体化していく。  今川家と駿河、遠江の南朝武士団との抗争も終わりが見えてきた。
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