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「ボケッとすんな、始まるぞ。こっちだ」
「与井先輩、チケットください。お手洗いに寄ってから行きます。すぐに行きますから」
この列の一番前だと与井に何度も説明された。寿は大きく頷いて、トイレに急いだ。
女子トイレには誰もいなかった。それはそうだ、もうすぐキックオフだ。
急いで用を足し、手を洗ってから、グロスを引き直した。
指が震えた。
寿が試合をするわけでもないのに、緊張していた。興奮していた。
ピッチは七割方、ユナイテッドの赤で埋まっていた。
粋の移籍前のラストゲームだ。ちゃんと観よう。目に焼き付けよう。
頬を軽く二回叩いて、寿は席に急いだ。
席はすぐに分かった。与井だけじゃない、久保も尾崎も川栗もいた。
寿は会釈して、与井の隣に座った。
「御坂はもちろんスタメンだけど、今日は広瀬もスタメンだ」
ピッチでは円陣を組んでいた。粋がいた。黒いヘアバンドを巻いている。指を折って数えたら、この間の初飲酒から十日振りだった。
葦沢高校の紺青のユニフォームも似合っていたけれど、ユナイテッドの深い赤もよく似合う。
粋は寿がここに座っていることに気が付いていないだろう。最後まで気が付かなくていい。だからどうか、怪我のないようにしてください、勝利に導いてください。
「あれ……芹沢寿じゃない?」
そこかしこから密やかな声が響きだした。
関係ない。写真でも何でも撮ればいい。SNSにでもなんでも上げればいい。
少し離れたところに座っていた女の子と目が合った。さっきの言葉はこの子だろう。寿は微笑むと小さくお辞儀をした。相手もつられて頭を下げた。
今大切なのは、粋のプレーを見届けることだ。
大きな声が聞こえてきた。円陣が解けて、キャプテンが主審のそばに集まった。
ホイッスルが響き、試合が始まった。
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