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「粋、ちゃんとできてる?」
「うん。バッチリだよ、ほら」
小鍋の中ではできあがった味噌汁が、今にも沸騰しそうに揺れていた。
「あ、火を止めないと」
「何で? まだ沸騰してないよ」
「味噌を入れたら沸騰させたら駄目だよ。お味噌の風味が飛んじゃうから」
「……そういえば、広瀬もそんなこと言ってたかも」
火を止めた粋が恥ずかしそうに笑った。
「もう間違えないよ。味噌汁は沸騰させない。冷凍庫にご飯があったから、勝手に解凍してる」
ちょうど電子レンジが止まった。
寿の部屋には最低限の食器しか揃っていない。サラダボウルみたいな器にご飯を入れて、味噌汁はマグカップに注いだ。目玉焼きは、上手に半熟に焼けていた。
「トマトがあるから、切るね」
冷蔵庫からトマトを出した。洗って半分に切って、へたを取ってくし切りにして目玉焼きの横に置いた。
「包丁、上手だね」
感心した様子で、粋が見ていた。包丁? と思ったが、手際のことを言っているらしい。
「私、一人暮らし歴長いんだよ。……だからさ」
手洗って粋を見上げた。
「料理教室なんて行かないで、私に訊いてほしかった。そうしたら、もっと会えたのに」
「訊いて良かったの? 忙しいかと思って……。そうか、ごめん。広瀬にも同じこと言われた、俺に訊けば良かったのにお前は阿呆だって」
粋なりに気を遣ったのだろうと思う。元々、粋は変なところで責任感が強い。自分のことだから自分一人で何とかしないといけないと、そう考える節があった。
「もっと話をしようね。離れても、もっとたくさん話をしよう」
返事の代わりに傾いた粋の顔が近付いた。目を閉じると、唇が重なった。
真冬を飛び越して寿のところにだけ春が来たような気がした。
恐怖はなくならない。
でも、この奇跡のような幸せを今は抱き締めていたかった。
「私も年末にパリに行くの。それまで、いっぱい会えるかな」
「会えるよ。会いに来る、毎日来るよ」
「うん。お料理教える。結構なんでも作れるんだよ」
粋のくせ毛から自分のシャンプーの香りがする。不思議な感じだ。
ずっと続いて欲しい。ずっと春だといい。再び重なった唇に、寿は祈った。
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