第二章 慰めの映画

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第二章 慰めの映画

 街の至る所で『あの曲』が耳につく季節になった。気づけばもう十二月の初め。飲食店で置きざりにされたあの事件から、早二か月。それでもなお、翔磨との関係修復に目処が立っていない私にとって、クリスマスソングは耳障りなものでしかない。  激しく動く二本の親指がぶつかることがないのは、自分でもよくわからない。フリック入力は私の思考といっていい。正確に、そしてほぼ誤差なしで意思を伝達することのできる代物だ。いや、思っても口に出さないことの多い私にとって『親指は口以上に物を言う』のかもしれない。むしろ親指の方が自分の気持ちに正直だ。 「明日か明後日、そっち行くね?」  送信時のスポッ、という音を考えた人はセンスがあると思う。  毎日欠かさずしていたラインの返信は数日おき、酷いときは数週間おきになり、「今忙しい」を盾に翔磨は一切私に構ってくれなくなった。 「行ってもいい?」という下からのお願いでは、無下に切り捨てられるだけだと最近学んだ。今回は「行くね?」という、半分断定口調で攻めてみることにした。  ピンコンッッ!  予想に反して、数分もしないうちに返信がきた。通知音はセンスがないと思う。エコーが効きすぎていて心臓に悪い。私はおそるおそるスマホを持ち上げる。目に入ったのは「無理」の二文字。あまりのそっけなさに、私は頭を抱える。 「ああああああ」  目の前にある黄土色のクッションをバンバンと殴りつける。これも翔磨にもらったものだ。……そうだった気がする。あれ、美紗都だっけ。  耐えられそうにない。もう限界だった。  私は明日の朝、彼のアパートに押しかける。翔磨に会って話がしたい。それの何がいけないのだろう。  洗面所に向かう。歯ブラシに歯磨き粉をたっぷりと乗せ、蛇口を勢いよくひねる。水が歯磨き粉をこそげ落としてしまう。  無性に腹が立った。シンクにへばりついた歯磨き粉を水だけで洗い流すことはなかなかできないと知っている。知っているけど、水圧を信じて試してしまう。十秒ほど。おい、そんなものかと。  諦めた。シンクと歯磨き粉の相性の良さにはほとほと呆れる。  ティッシュを持ってくる。拭く。再び歯ブラシに歯磨き粉を乗せる。さっきより少なめに。蛇口をゆっくりとひねる。それでもまた歯磨き粉が落ちそうになる。落ちる前に口にくわえる。  突然押しかけるとどうなるか。翔磨は怒ると思う。私でも急に来られたら怒る。  浮気現場を目撃する可能性? あるかもしれない。しかし、そんなことはどうだっていい。私は彼に会いたくて仕方がなかった。  口を突き出して左右に動かしていた手の力が抜ける。だらしなく開いた口からぼたぼたと泡が落下する。  一つだけ。ひとつだけ心配なことがある。美紗都との関係だ。もし翔磨と言い合いになって喧嘩別れとなれば、間違いなく私が悪者になる。美紗都は兄が大好きなのだ。  大学でできた唯一の友達を失いたくない。しかし、あの兄妹はセットなのだ。片方だけとずっと関係を維持することなど不可能だ。それだけはわかる。  やめだ。考えても無駄だ。泡をすべて吐き出し、適当に口をゆすいで、ベッドに向かう。布団を頭から被る。明日に備えよう。  柵を飛び越える羊を一生懸命思い浮かべながら、早く寝るように努める。その夜は大幅に記録を更新した。  翔磨のアパート扉の前で、私はかれこれ数十分うろちょろしている。目覚まし時計が鳴る前から支度をはじめ、意気揚々とここに訪れたのはいいものの、直前になって怖気づいてしまっている。情けない。  時計を確認する。八時前。さすがに早すぎただろうか。非常識な女だと嫌われないだろうか。そんなことをずっと、うだうだと考えている。  浮気する女の方がよっぽど非常識だ。そこまで考えて、やっと踏ん切りがついた。  ピンポーン。  長い沈黙。散らばった服を急いで拾い集め、着ているところだったりして。扉に耳を押し当てる。何も聞こえない。  ガチャ。  ほんの少しだけ開いた。私はすぐさま扉から耳を離す。 「え?」  隙間から彼の顔。大きな瞳が揺れたのを、私は決して見逃さない。やはり。私はすでに考えておいた台詞を口にする。 「せっかくの土曜日だからさ、映画を一緒に観ようと思って。いっぱい持ってきちゃった」  映画のDVDが大量に入った袋を目線の高さまで持ち上げ、早口でまくしたてながら、ドアの内側に体を滑り込ませる。  映画を持ってきたのは嘘ではない。近くのレンタルショップで適当に借りてきたものだ。  ただ、翔磨は映画が好きではない。むしろ嫌いであると私は知っている。いつの日か、酔っ払った彼が言っていたことを思い出す。 「映画というか、フィクション全般が嫌いだよ。あんなものに頼ってないで現実に向き合えって、いつも思うんだ。慰めにもならない」  それを聞いたとき、少なからずショックを受けた。私は慰めのために映画を観ているわけではない。そう伝えたが、翔磨は自分の言ったことすらも覚えていないに違いない。  そんな彼に、今さらながら私は嫌がらせしようとしているのだろうか。これもまた自分の底意地の悪さだろうか。いや、今はそんなことよりも。 「おい! 勝手に入るな」  ハッと意識を取り戻した私は、翔磨を無視して、ずかずかと廊下を抜けて居間の方へと向かう。  辺りを見回す。女は寝ていない。女の私物、そういった類のものも……見当たらない。少しほっとしている自分がいる。 「おい!」  後ろの短い廊下で、聞いたこともないような尖った彼の声。 「なんだよ」  なんだよ、とはなんだ。あなたに、会いに来たのだ。 「いやだから、映画みたいな〜って」  私も鬼ではない。まずは、下手に。 「今日は忙しいって言ったよな? 来るなって言ったよな?」  忙しいらしい。まただ。この言い訳。これはもう聞き飽きた。これしか思いつかないのだろうか。しかも忙しいとは聞いていない。「無理」としか返信はもらっていないのだから。 「映画を観たい? くだらない。俺には、時間がないんだ。他にしなきゃいけないことが山ほどあ……」 「どうして冷たくするの!」  思ったより大きな声が出たことに私自身が驚いた。  しかし、翔磨の方がもっと驚いたらしい。睨む私に完全にフリーズしている。 「そ、そんなおっきな声出すなよ。アパートなんだから響くだろ」  未だ私ではなくアパートの隣人との関係を気に掛ける彼に、堪忍袋の緒が切れた。  と思った。  私の中の、たくさんいる私の一人が「どうでもいっか」と言った。どんどん頭が冴えわたっていくのに、何もかもどうでもよくなって、いつしか私の中ですべてが完結してしまった。とことん問い詰めてやろう、といつもならなるはずなのに。  室内の温度が、がくんと落ちた気がした。 「ねえ、私って、めんどくさい女?」  翔磨の視線が右へ左へ。揺れながら少しずつ上の方へ。私の顔を一瞬だけ確認し、すぐに離れる。あなたの思考が手に取るようにわかる。 「これでも我慢した方だよ? 忙しい忙しい忙しい、って聞き飽きたんだけど」  彼は俯いている。何も喋らない。覗き込むようにして私は一歩前へ。それに合わせて翔磨は一歩後ずさりする。 「ねえ。なんか答えたらどうなの?」 「ちがう」 「私のこと嫌いになったんだね」 「ちがう! 本当にそれだけはちがう」 「ちがう、しか言わない。他にもっと気の利いた言葉あるの知らない?」 「ちがうんだ」 「めんどくさい女と思ってるんなら、とっとと別れを切り出せばいいのに」 「そんなこと思ってない」  頭を抱えているが、抱えたいのは私の方だ。 「もういいって。私のことなんか、さっさとポイって捨てちゃえば」  視界が真っ暗になった。  集中が、途切れた。  私は目を閉じている。  またやってしまった、と私は思った。自分で言ったことに傷ついた。一線を超えてしまった。いつもそうだ。これまでの人生、何度これを繰り返してきたのだろう。  胸の内にある『ぼんやりとしたもの』を深く考えることなく、言語化しないで生きる。その方が幸せなときもある。そのことを私は、幾度となく学んできたはずなのに。 「そんなこと……言うな」  気づけば私は、翔磨の腕の中にすっぽりとおさまっている。 「今日だけだ。本当に、今日だけ」  どうして翔磨の方が私より泣いているのだろう。これじゃあまるで、私が加害者みたいだ。  ベストアンサーだと思った。言葉なんか必要ない。まさか最適解を導き出してくるなんて。  大きな体に包まれていると安心する。何でも許してしまいそうになる。私は自分にも、翔磨にも、甘すぎるのかもしれない。あたたかい抱擁に、私の怒りも傷心も、完全に溶けてなくなった。一生この状態が続けばいいな、と思った。  テレビから音が流れている。映像としてではなく、私は音としてそれを認識している。  私は一人、シングルベッドの側面に背をつけて、体育座りで映画を観ている。  翔磨は、私から少し離れた椅子に座って、映画ではなく私のことをじっと見つめている。私と翔磨の間には、近いとも遠いとも言えない絶妙な距離感が保たれている。  どうやら私は、先程のハグで仲直りができたと勘違いしていたようだ。  翔磨は頑なに、私の隣に座ることを拒んだ。一言も発することなく、ただひたすら映画ではなく私のことを見つめている。  正直、気味が悪かった。気になって仕方ない。映画の内容が頭に入ってこない。耐え切れなくなった私は映画を一旦一時停止し、尋ねることにした。 「さっきからさ、何なの?」 「ん」 「いや、なんでこっち見るの?」 「映画を観てる」 「いや、観てないよね」 「気にしないでくれ」 「そんなこと言われても、私は気になるんだけど」 「ああ」 「ああ、じゃなくって。何か言いたいことでもあるわけ?」 「いいんだ。穂乃香は映画を観続けといてくれたら、それでいい」  彼は立ち上がってリモコンの再生ボタンを押す。私はすぐに一時停止ボタンを押し返す。 「別に翔磨は映画観る気ないよね?」 「いいからいいから」  そう言いながら再びボタンを押す。そして、すぐに定位置に戻る。依然として体は私の方に向いている。  わけがわからなかった。  諦めて、私は映画をつづきから観始める。張り付くような横からの視線は、その後も続いた。  映画は三本目に差し掛かっていた。大して興味のない古いスリラー映画。腰が痛くなってきてハラハラどころではなくなっている。 「ちょっと、トイレ」 「ねえ、さっきから多くない?」 「いや、おなかが痛くってさ」  私が映画を観ている最中、彼は何度も何度もトイレに立った。どこか嘘っぽいな、なんてぼんやり考えながら彼の後ろ姿を見ていたとき、私はあることを思いついた。翔磨の最近の不可解な行動のすべてを、簡単に確かめる方法だ。 「ごめん。トイレ」 「ん」  彼はわざわざ言う必要のない謝りを入れ、再びリビングを後にした。毎回律儀に言うところが真面目な人だなと思う。  トイレに行って戻ってくるまで、十分に時間があるとは言えない。  私はすぐに行動に移した。彼のバッグから長財布を引っこ抜き、中身を確認する。それだけだ。確信はなかったが、ロックされているスマートフォンより何か手掛かりになるようなことがあるかもしれない。そう考えた。  個人情報の詰まった他人の財布。恋人であっても、普段見ることはない。まさにこれが『覗く』という感覚なのだろう。妙な高揚と興奮を覚えた。  ジー、と安っぽい財布が奏でるチャックの音。  運転免許証。様々なポイントカード。あと、これは職場の社員カードと呼ばれるものだろうか。思ったよりはごちゃごちゃしていない。男の人の財布ってもっと汚いものだと思っていた。  唯一、レシート一枚と何かの半券が折りたたまれて挟まっていた。私はそれを広げて中身を確認する。  居酒屋。恋愛映画。  日付は昨日。レシートには女性が飲みやすそうなお酒が並んでいる。  紙をそっと、閉じた。いつもの、目を閉じるみたいに。  悲しいよりも、やっぱりそうだったか、という気持ちの方が強かった。  私はDVDを取り出し、荷物をまとめる。彼がトイレから戻ってくる前にアパートを後にした。そのとき私は、玄関横のフックにかけてあった『あるもの』を盗んだ。  涙は出なかった。  私がいなくなっていることに、彼は驚くだろうか。少しは気にしてくれるだろうか。いや彼はきっと私がいなくなって清々するにちがいない。  そもそも、賢い彼が財布に恋愛映画の半券を残すようなヘマをするだろうか。私が財布を覗くことまで予測して、あえて残した。そうとも考えられる。言っても聞かない私のことを、間接的に遠ざけようとしたのかもしれない。  私の手には、彼のアパートのスペアキーが握られている。玄関先で数秒ほど悩んだ末、持ち出してきてしまった。私はこのスペアキーで一体何をどうしたいのだろう。もう一度機を見て訪れるつもりなのだろうか。もしくはまた彼に嫌がらせをして困らせたいのだろうか。自分がわからなかった。  私はスペアキーを強く握り直す。盗んだ事実を握り潰すかのように。長くなった自分の影に追われるように、私は帰路につく。  次の日。私の浅い眠りを妨げたのはラインの着信音だった。  私のスマホは鳴り続ける。ロック画面には、不在着信履歴が増え続ける。すべて翔磨からのものだ。  彼はどういうわけか、私がスマホの前にいると知っている。電話を鳴らし続けるのはそのためだ。その電話に私があえて出ていないだけだということも、見えていないはずなのに知っている。だから、しつこいくらいにかけ続けてくる。私の行動はすべて、彼にはお見通しなのだ。  私はこの電話が何を意味するのか、出ればどうなるのか、なんとなく見当がついている。  軽快で跳ね回る着信音。その音に合わせて楽しそうに踊り狂う妖精さんが目の前に現れて、十分以上が経過した。最初は一円玉にも満たない大きさだったのに、いまや卵くらいになった。  鳴りやまない。鳴りやむことはない。そしてこの妖精も疲れを知らない。声もなく口をパクパクさせて踊り続ける。この妖精は膨らみ続けて、いずれ私よりも大きくなるような気がした。  この着信音は想像以上に私の心を削った。その音は頭の中で重複し、反響し続けた。  頭の中がその音だけで満たされたとき、私は緑の応答ボタンを反射的に押していた。私はすぐに、押さなければよかったと後悔する。 「もしもし」 「……別れよう。君に僕は必要ない。さよなら」 「お願い、もう」  ポロン。  かかってきた電話は、私が口を挟む間もなく切れてしまった。私に釈明の余地は残されていなかった。  あたりまえだ。昨日、アパートから何も言わず逃げるようにして帰ったのは、他でもない私なのだから。  嗚咽を漏らしているのは妖精ではなかった。私だった。  私は、大切なものを失ったらしい。失ってから気づいた。失ったから気づいた。  この涙が、ショックからくるものなのか、自分の情けなさからくるものなのか、それすらもわからない。せめてもう一度だけ、私に謝るチャンスを与えてほしい。そう思って何度も私からかけ直す。しかし、繋がることはなかった。  汗のように噴き出す涙が腹立たしかった。  私は、このことを美紗都にも伝えなければいけないと思った。美紗都に電話をかける。何から話そうか、と考える間もなく繋がった。 「もしもし」  バイト終わりだろうか。美紗都の声に覇気がないと思った。私と変わらず沈んでいるように聞こえる。 「夜に、ごめんなさい」 「いいよ全然。どうしたの? 何かあった?」  私の声から何かを察して、合わせてくれているのだろうか。 「……穂乃香? どうしたの?」 「あ、ううん。……私ね、さっき翔磨と別れた」  不自然な間があった。少しして、美紗都が電話越しに大きく息を吸ったのがわかった。 「お兄ちゃんを紹介したのは謝る。でも、これ以上は関わらないであげて。今までありがとう」  ライン通話の切れる音がした。美紗都も兄と同様、私の返事を待つことなく電話を切った。兄妹なのだな、と思った。  できればもっと、話していたかった。今の心情。これからの関係。辛かったこと。楽しかったこと。  私にはもう、それを共有する相手がいない。  私は、ひとりになった。
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