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第三章 背の高い彼女
サカナ サカナ サカナ サカナを食べると~
どうなるのだろう、と私は思った。
アタマ アタマ アタマ アタマが良くなる~
そんなことを言っていたのだ、と今さらながら知った。レジとは最も遠い位置にある生鮮食品のコーナーから、空気を漂う埃よりも微々たる存在として、うっすらと私の耳に届いた。働き始めて三年以上も経つのに知らなかった。意識することが今までになかった。
「ど、どうしたんですか」
「……え?」
お客さんが不憫な目をこちらに向けている。
「その……泣いてるから」
アルバイト中の出来事だ。
「す、すみません。なんでもありません」
カラダ カラダ カラダ カラダに良いのさ~
アタマにもカラダにもいいらしい。
頬を伝っていた涙を、振り落とすように拭う。気がつけば他にも客が並び始めている。
翔磨と別れて、一週間が経った。あの日以来、彼ばかりを想ってきた。
ご飯を食べているとき、湯船につかっているとき、寝るとき、起きるとき。ふとしたときに彼の顔が浮かんでくる。ちゃんと寝られているかな。ご飯は食べられているかな。
何か他のことで頭を一杯にしたいと思ってシフトを増やしたのに、どうやら気が緩んでしまってアタマはサカナで一杯になっていたらしい。
「なんだか知らないけど、頑張ってね」
そう言って去っていったお客さんの癖毛が、彼に似ているなと思った。
ガチャン、と大きな鉄製のドアが閉まる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした~」
このスーパーは、地域の優しいオバちゃんばかりをかき集めてできている。と私は思っている。こんなにも寡黙な私を受け入れてくれるスーパーは他にないだろう。
ロングコートに首をすぼめ、夜道を一人で歩く。なるべく早く足を動かすことだけに集中する。そうしないと、夜の闇に何か大切なものが持って行かれてしまうような気がする。
やかましい踏切の音が聞こえる。ごーごーと電車が通り過ぎる。
「……別れよう。君に僕は必要ない。さよなら」
この言葉が、何度も何度も頭の中を反芻する。いつもに増して、冷たく突き放すような物言いだった。
「……別れよう。君に僕は必要ない。さよなら」
さよならの語尾が震えているように感じたのは気のせいだろうか。
気のせいだ、と自分に言い聞かせるのにも、いい加減飽きた。少しの希望にすがりつこうとする私を、美紗都ならどのように咎めてくれるだろう。
私は、その美紗都すら失った。生きた心地がしない。
そもそもあの小さなスーパーでさえすべてを把握することも叶わないのに、付き合って二年で一人の人間を理解できていると思っていたことがおこがましい。
× × ×
カフェ店内を流れる、ゆったりとした曲。会話を邪魔することなくただ雰囲気作りに徹している。普段意識することはなく、その存在にわざわざ感謝する人もいない。ただ、無いと味気ない。そんなものでこの世は溢れているなと思う。
今日はクリスマスイブ。私は入り口から最も離れた二人席を一人で陣取って、入れ替わり立ち替わりする人たちをもう何時間も見つめている。訪れる客のほとんどがカップルで、みんな幸せそうだ。
その様子を見て、寂しくなったり腹が立ったりするようなことはない。二週間という時間が、だいぶ私を落ち着かせたようだ。コーヒーを飲んでいれば大抵のことがちっぽけなことのように感じられる。
置いたコーヒーカップの横。コーヒーでも拭いきれない悩みはこれだけだ。
鍵。
捨ててしまおうか、と何度も思った。でも、捨てられなかった。シュレッダーにでもかけて粉々にすることができればどれだけ楽か。そっとポストに返却することも考えた。しかし、あの場所に再び訪れる勇気は、私にはなかった。
「あーもう。雪えっぐ」
隣の客が立ち去ってから五分もしないうちに、新たな客がやってきた。今回は珍しくカップルではなく、私と同じお一人様だった。茶髪で同い年くらいの女の人。派手なオレンジ色の服を身にまとっている。帽子やコートに積もった雪を払い落としているところを見て、忙しない印象を受けた。荷物を置いて、一度注文に向かう。
ホイップ増し増しの抹茶フラペチーノを大事そうに運んできた。ただでさえ背が高いのに厚底ブーツを履くのはなぜだろう。この人に限ったことではないが、いつもそう思う。あと、胸焼けしないのかな、とも思った。
彼女はドカンと音を立てて座った。
私が見つめすぎたせいなのだが、彼女がこちらを見た。私が慌てて目を逸らすと、彼女は顔に似合わず男のような低音ボイスを響かせて言った。
「ひとりですか?」
その言い方は私に、慣れたナンパ師を思い浮かばせた。
「あ、ええ、まあ」
目が泳いでいるぞ、ともう一人の私が言った。第三者視点で私に語り掛けてくる私。すごく頼りになるやつなのに、そいつは心の中で留まって、助言するだけ、見ているだけだ。
噴き出す脇汗。
「なんだか、周りカップルばっかりで嫌になっちゃいますよね」
彼女はそう言うと、美味しそうにフラペチーノをすすった。
「はあ」
慣れた感じを出そうとすればするほど、私は口数が少なくなるばかりだ。
「だからさ、そっち、行っちゃってもいいですか」
彼女は許可を取っておきながら、私の返答も待たず、すでに移動を始めている。詐欺に遭う人の気持ちが少しわかった気がした。大切なのは、相手に有無を言わせず押し切ること。
「ふう」と彼女はまるで自宅にいるような安心感を醸し出す一息。反対に私は、脇にとどまらず体中から汗が噴き出している。服全体が黄ばんでいく感覚とその映像が頭をよぎり、着ている服を一度確認する。……大丈夫だ。
「どうしたんです? ずっと辛気臭そうな顔してるけど」
彼女は髪をくるくると人差し指で巻きながら私に問いかける。
「いや、なんというか……」
ごにょごにょとはぐらかそうとする私は、今すぐにでもその場から立ち去りたい気分だった。
ん、と彼女の顔が接近してくる。
「ええと、まあ、その、迷っていることがあるというか」
「はいはい。そんなときはねぇ……」
彼女は後ろを振り向いて、椅子に掛けてあったバッグの中をごそごそし始める。まさか本当に、壺でも取り出すつもりなのではないだろうか。
「はい」
彼女は私の前で手を広げた。手の平の上にあったのは飴だった。いちごミルク味。
「気持ちがね、沈んでいるときは飴に限る。別にガムでもラムネでもなんだっていいんだけどさ」
それでは飴に限っていないではないか。
ん、と言って彼女はさらに手を前に突き出してくる。
「こ、これは……毒ですか」
しまった。なんてことを私は。
目の前の彼女は、きょとんとした顔になる。そしてすぐにはじけたように笑う。
「失礼な。じゃあ、私が毒見しよう」
慣れた手つきで袋を破き、ぱくっと一口。うん美味い、と飴が溶けだしてもいないだろうタイミングで言った。条件反射だ。パブロフの犬だ。
「証明完了。では君にもあげよう」
鞄からもう一つ取り出して、私の目の前に置いた。パイン飴だった。さっきのものとちがう。
証明した意味はなくなったが、私はさっと取ってポケットにしまい込んだ。なんだか盗んだみたいになってしまったな、と後になってから思う。
「帰ったら食べますね」
「君は用心深いね。捨てるなよ」
彼女はまた笑った。
こういう人を見ていると、私とはちがう人種なのだな、といつも思う。同じ日本生まれだけど、赤ん坊の頃から、それは目を開いた瞬間から、私とはちがうものに興味を持ち、触れて、何かを感じとり、行動してきたのだ。
ちがう世界のあなたが、頼んでもいないのに私の世界をこじ開けて踏み荒らすのはなぜ? それは私という存在が、あなたの世界における興味の一つだから?
「彼氏に振られでもした?」
あやうく声が出そうになった。彼女は私の反応を見て、満足そうな顔をしている。
「実は私もなんだ」
平然と言った。
「おんなじ匂いがした。だから声を掛けた」
匂い? 汗……のことを言っているのではないはずだ。
すん、と彼女は真顔になる。
「五年なんて無いに等しい。長く付き合っていればいるほどわかり合っていると思っていたけど、間違いだったって今回は気づけた」
五年。私には果てしない月日。
彼女は飲んでいたホイップ増し増しの抹茶フラペチーノを、ちょっとだけ吸い込み、手から滑り落とすように置いた。目を伏せ、何かに思いを馳せているような顔。
「まだ、好きですか? その人のこと」
私は彼女の顔を窺いながら、恐る恐る聞いた。
「いんや、全然」
予想外の答えだった。しっかり座っている木製の椅子からずり落ちそうになった。
「なんかさ」
彼女は両手を顔の前に組む。
「付き合うにあたって、しっかりお互いがさ、支え合う関係がいいと思ってるのね、私は」
「はい」
その通りだ。
「でもさ、いつしか『依存』にすり替わっていたみたいな」
「はい?」
同じ意味ではないのか、と私は思った。そんな私を置いて彼女はしゃべり続ける。
「今回は運命だって思ったんだ。これを逃せば次はないって。だからしっかり支えようって」
彼女は遠くを見つめるような顔。コロコロと表情の変わる人だ。
「それが、どうやら重かったらしいし、私も重かった」
聞いていて、なんとなくわかったような、わからないような……。
「ね、私のさ、チャームポイント言ってみて」
突然、彼女は何の前触れもなく話題を変えた。おどけた感じで自分のことを指差している。
これは難題だった。そもそもチャームポイントとは自分で決めるものではなかったか。うーん、と悩むのもなんだか失礼なような気がして、私はさっき思ったことを口にする。
「背が、高い」
「正解」
即答。私の答えを予想していたのだろう。
「そうなんだよ。逆に、それしかない」
私は二個目のチャームポイントを必死になって探した。目の前の彼女。顔は普通。目立った部品を……お持ちではない。胸も……なくはない。お世辞はこの場では失礼だし、すぐに見破られる気がした。それにしても、これといった特徴がない。
「ああ、無理に探さなくてもいいよ。私が一番知ってるから……」
初めて彼女は、弱々しくて絞り出すような声を出した。
「あのさ、全然君のことを責めてるわけじゃないよ。みんなそう言うしさ。でもさ、身長が高いのって、絶対的な価値があるわけじゃないよね。なんというか、良くも悪くもある」
彼女の話し方は人を惹きつけるものがあった。
「背の低い子と平均身長の子が言うんだよね。背が高くていいねって。でも、私とおんなじくらいの背たけの子は言うの。もっと小さければなあ、って」
「そうですね。みんなそう言います」
「じゃあ、どっちがいいだろうって、思うわけ」
私は考えた。
「……どっちもどっち?」
「そう! だから私は、これをチャームポイントと思ってないわけ」
ふんぞり返って言うことではない気もするが。
「結局、一番いい身長ってのはないの。だけど、『ちょうどいい』身長ならある」
「ちょうどいい身長?」
「そう。それは相性の問題でもある。身長差がありすぎるとキスとかセックスをしにくくなるって聞いたことない?」
「あ、ありますけど」
彼女は恥ずかしげもなく大声で言うものだから、私は辺りを確認してしまう。そんな私をさておいて、彼女は気にせず話し続ける。
「相手がいて初めて、私の身長にも価値が出る」
「は、はあ」
「じゃあ、私はひとりだとどうなるの? 無価値?」
「それは」
「私には、なーんにもないわけ?」
彼女は本日二回目、沈んだ声を出した。
「そ、そんなことはありません」
「なんで? 理由は?」
ぐっ、と詰め寄られて私は怯みそうになる。頭を巡らせる。ドクドクと血の流れる音がする。
「私を、誰かを、惹きつけるような話し方ができます。……私とちがって」
彼女は驚いた顔をする。そして、ニコッと笑う。
「ありがとう。そんなこと考えたこともなかった」
彼女は笑うと可愛い。こんな人を捨てた彼氏の気が知れない。
「まあそれも、君がいて初めて成り立つことだけれども」
はっ、確かにそうだ。
「人間はこの定めから、逃れられないのかもしれない」
今までの話を思い返してみて、ひどく抽象的な話だなと私は思った。
「でもいいの。おかげで気持ちが楽になった」
彼女は両手を組んで伸びをする。
「こんな考えに囚われてたからさ、自分の生まれてきた意義を、他人に求めちゃったんだよ。……ばっかみたい」
彼女に具体的に何があったのか、一つとして聞けていない。この背の高い女性はどんな恋愛経験を積んできたのだろう。どんなことを見て、聞いて、感じてきたのだろう。
まだ翔磨としか付き合ったことのない私にとって、この世界にはわからないこと、知らないことで溢れている。果たして私が翔磨に求めていたのは、支え合うことか依存か。
踏ん切りが、ついた。
「私、行きます」
「え、行っちゃうの。今から君の話が聞けると思っていたのに」
「いいんです。私のは面白くありませんから」
彼女と話をして、私はスペアキーを返しに行こうと思った。なぜだかは自分でもわからない。なんとなく、今なら返しにいけると思ったのだ。
「ああ、ちょっと待って最後に」
レジを済まそうとすでに歩き始めていた私を、彼女は引きとめる。
「このフラペチーノいらない? 胸焼けした」
私は笑った。声を上げて。久しぶりに笑ったな、と思った。困惑顔の彼女。
「いりません」
私は笑いが収まってから、言った。
「そうか。じゃあ、頑張って」
私がこれから何をするのか知らないのに、彼女は知っているような口調で言った。
彼女を残し、カフェを後にする。心の中で「ありがとう」とつぶやく。
会計を済ませ、去り際に振り返ってもう一度彼女の後ろ姿を確認する。彼女はすでに私と同じような一人客を捕まえていた。一方的に話しかけているのが遠目でもわかった。
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