第四章 依存する私

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第四章 依存する私

 自転車を漕ぐ。これも買って五年が経つだろうか。キーキーという音は、そろそろお暇させてくれという悲鳴にも聞こえる。  雪は止んでいる。スリップしないように気をつけながら私は彼のアパートに向かう。顔を撫でる冷たい空気に、電車で来なかったことをすでに後悔し始めている。  必死に漕げば漕ぐほど、顔の表面とは反対に体の芯は熱くなって、彼との思い出が蘇る。これもちょうど一年前の十二月。手を繋いで歩いているとき、突然で、何の脈略もないプロポーズをしてきた。 「今すぐじゃなくていい。穂乃香が大学を卒業したら結婚しよう」  彼は、自分でも何を口走ったか理解できていない顔をしていた。おそらく咄嗟に口を衝いた言葉だったのだろう。言った後からすぐ顔が赤くなっていくのが、かわいいと思った。  ブレーキをゆっくりかける。いつもの倍以上の時間をかけて。自転車から降りる。スタンドをたてる。  着いた。このアパートに来るのも、今日が最後になる。私はバッグから鍵を取り出し、ぎゅっと握る。  冷え冷えとした階段。長い廊下。  まず、スペアキーを取って帰ってしまったことを謝る。パッと渡して、すぐに立ち去る。それだけでいい。長居は無用だ。  ドアの前に立つ。インターホンに手を添える。指の震えを抑えつけるようにゆっくりと押し込む。  ピンポーン。  一分待っても反応がない。物音すら聞こえない。留守だろうか。先延ばしになっただけでなんの解決にもなっていないのだが、肩の荷が下りた気分だった。  慎ましいアパートだが、防犯対策でドアが新しいものに変わったと、半年前に彼が言っていたのを思い出す。特に取手の部分は最新式のもので、簡単に開けることは不可能だと言っていた。  やけに大きくて冷たい様相を呈したその取手。私が引っ張ってもビクともしなさそうだ。それでもふと、引っ張ってみたくなった。  ガチャ。  ウソ……開いた。あまりの軽さに驚いてしまう。扉の隙間から中を覗く。電気がついていない。もう夕方に近い時間で、寝ているとは考えにくい。締め忘れだろうか。なんとも不用心だ。  扉から顔を引いて、キョロキョロと辺りを確認する。不法侵入だと勘違いされたくなくてとった行動が、まさにそれっぽくなってしまった。堂々としていよう。  ダメだとわかっていながら、侵入するのを私はやめられなかった。  カチャ、と静かに玄関扉を閉める。  匂いがした。私の大好きな、彼の匂い。数週間ぶりのはずなのに、数年ぶりのような気がした。  感傷に浸っている場合ではない、とすぐに自分に鞭を打つ。いつもより長く感じられる廊下を歩き、居間に入るドアを開ける。  ガチャ、と大きな音が鳴った。  彼のベッドの周辺に、知らない女の下着が散らばっていた。  来なければよかったと思った。  鍵を返して大人しくこのアパートを後にすればよかったのだ。  私が振られた理由を知りたい一心で、ノコノコとリビングまで来てしまった自分が悪い。  ここまで来て、すすり泣きとはみっともない。目を伏せ、廊下の壁に手をつきながらなんとか足を進める。  しかし私は、靴を履き直しているところで動きを止めた。妙だ、と思った。  私の願望である可能性も否めない。だが、確かめる価値はあると思った。  靴を脱ぎ捨て、重たい足をもう一度居間に運ぶ。  ガチャ、と再び大きな音が鳴った。  やはりそうだ。妙だと思ったその正体がわかった。  ベッドがまったく乱れていないのだ。女の下着の他に、翔磨の服が散らばっているわけでもない。散乱した下着は、ただ誰かが意図的に『置いた』だけにしか見えなかった。  私はこのとき、あることを思い出した。  何が引き金になったのかはわからない。ただこれが正しければ、私は取り返しのつかない間違いを犯していたことになる。スマホを取り出して、ある人に電話をかける。  電話の呼び出し音がやけに遅く感じられる。はやく。はやく。はやく。 「……穂乃香?」  繋がった。懐かしい美紗都の声だ。  ただ、私の名前を呼んだだけなのにわかる。話し方に距離を感じた。たった二週間で、私たちは親友から赤の他人になってしまったのだろうか。 「穂乃香……ねえ、どうしたの?」 「ひとつだけ、どうしてもひとつだけ確認したかったの」  前置きは必要ない。その確信に近い疑問を単刀直入にぶつける。 「翔磨がつけていたブレスレッドとネックレスって、美紗都のじゃない?」  時間差で、嗚咽の音。  肯定も否定もしない。ただ、その嗚咽が全てを物語っていた。  彼女が落ち着くまで待ちつづけようと思った。いや、正確に言えば私はかける言葉が見つからなかった。 「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。ごめんなさい」  美紗都は謝り続けた。それは自分を落ち着かせるような言い方でもあった。 「……そんなに謝らないで」 「私は、お兄ちゃんの言う通りにしただけ。ううん、お兄ちゃんに助言を求められて、提案した。だから、私も共犯」  共犯?  私の拙い想像力でも、最悪のシナリオを描くのに十分すぎて有り余るほどだった。しかし、すべてはわからない。今少なくともわかるのは、彼女がここまで取り乱すような事態だということ。 「私どうすればいいか、ずっと悩んでた。でも、ほんとは穂乃香に気づいてほしかった。ありがとう気づいてくれて。本当に、ありがとう」  美紗都は堰を切ったように声をあげて泣き始める。すべてを知るには翔磨から直接聞き出すしかない。それ以外、方法は残されていないと私は悟った。 「美紗都。翔磨はどこ? 今どこにいるの?」 「それは……言えない」 「どうして言ってくれないの?」 「お兄ちゃんに口止めされてるの」  やはり。彼はどうしても私に会いたくないらしい。しかし、彼と私を繋ぐのは美紗都しかいない。美紗都しかいないのだ。ここで折れたら先はない。 「美紗都、お願い。私、すべてを知りたい。私には、すべてを知る覚悟がある」  これだけ言ってやっと、私の思いが届いたのか、彼女はゆっくりと口を開く。 「お兄ちゃんは……」  私は目をつむった。耳に体中の全ての神経を集め、聞いていた。 「……そう。ありがとう。今から向かうけどいいよね?」 「ええ」  私は電話を切り、アパートを後にした。  雪がまた振り出している。走りながら自転車をアパートに置き忘れたのだと気がついた。髪の上に降り積もる綿菓子みたいな雪でさえ鬱陶しいと感じる。髪の毛に挟まって、溶け込んで、吸収して、私の動きを少しでも遅らせようとしているみたいだ。こんな煩わしい抜け毛だらけの髪の毛なんて、すべて無くなってしまえばいい。本気でそう思った。  嘘だ嘘だ嘘だ。そんなわけない。翔磨は、私に嘘をついていた。ここ数ヶ月の言動を思い出す。それは本当に、自分には思いもよらないような嘘。しかし私は、疑問に思いながら、深く考えることもせず、見過ごしてきた。  大きな自動ドアは、それはもう、もったいぶってゆっくりと開いた。  美紗都が告げた、翔磨の居場所。 「市内の病院の最上階、特別療養室にいる」  走らないで、という太った看護師の声が遠くから聞こえる。雪道と違ってリノリウムの床は私の足の力をしっかりと跳ね返してくれる。  立ち止まって息を整える。鉛のように重いスライドドアを開ける。  彼は窓際のベッドで、静かに外を眺めていた。  自分の荒い息ばかりが聞こえてくる。整えたつもりが全然できていなかった。立ちすくむ私があたかも幻覚なのではないかとでもいうように、彼は目を瞬く。 「穂乃香?」  すぐに険しい顔になり、美紗都だな、と言った。私にではなく自分に言い聞かせるように言った。彼は、最後に会ったときよりも痛々しいくらいに痩せている。 「何やってんだよ美紗都は。全部パアになっちゃったじゃないか」  私はいまだ声が出せずにいた。  何をやっても不器用な彼が、演技で人を騙せるはずがない。そしてそれを、私が見破れないはずがない。今でもそう考えている私がいる。 「上手いことやってたつもりなんだけどな。何がいけなかったかな。完璧だと思ってたのに」  饒舌だ、と思った。彼は元来こんなにしゃべる人ではない。  彼は無意識に手首のブレスレッドをいじくっている。つるつると光沢のある表面。それとは対照的な彼のざらざらと乾燥した皮膚。 「ネックレスは?」  聞くことはもっと他にあるだろうと思う。 「あれは美紗都のものだ。これも本当は、美紗都のために買ったんだけどな」  ベッドに近寄る。しゃがんだ私は、下から彼の顔を見上げる形になる。窓越しのオレンジ色の逆光が、彼を包んでいる。 「私……ずっと、翔磨を疑ってた。他に女の人ができたって」 「思ってたより上手く騙せてたんだな。よかったよかった。俺の演技も捨てたものじゃないな」  下手くそだ。強がりが下手くそすぎて見ていられない。 「あと半年くらい、誰にも迷惑をかけずに生きようって決めてたのに」  そう言う彼の表情は終始穏やかだ。 「あと半年?」 「担当医の人が言うにはね」  そんなにも……そんなにも短いのか。  この状況に陥ってなお、なぜ微笑む余裕すらあるのか。またしても私にはわからない。  と思えば突然、その微笑みが、彼の表情に組み込まれていたはずの喜怒哀楽の感情全てが、抜け落ちた。そんな顔になった。 「俺みたいなやつ、さっさとポイって捨てちゃえばよかったんだ」  彼はそっぽを向き、私から目を背ける。体が小刻みに震えているのが伝わってくる。 「どうして? どうして演技なんかしたの?」  彼は苦しそうに言った。 「忘れて、ほしかった」  このとき、わかった。  わかったのは、彼の気持ちではない。  私の何がいけなかったのか。私の汚いところが、すべて、わかった。 「俺なんか、すっぱり忘れてしまって、穂乃香には前に進んでほしかった」  振り返った彼は、見事な泣き笑い。ちょうど半分ずつ織り交ぜたような顔をしている。そんな表情知らない。見たくない。 「嬉しいなぁ」  意味がわからない。 「ただでさえ嘘をつくのが苦手な俺が、好きな人のためにここまで頑張れたこと」  やめて。 「その嘘が、好きな人に暴かれてしまったこと」  お願いだから、もうしゃべらないでほしい。 「最後までやりきるって決めてたのに、こんなにも、こんなにも嬉しいことだなんて」  もう、たくさんだ。 「ありがとう、穂乃香」  私は、間違っていた。  私は、自分のことばかり考えていた。  相手のことなど、微塵たりとも考えていなかった。 「ありがとう、穂乃香」 「やめて!」  彼は首をかしげる。  彼が怖い。笑っている。 「私は……」  言葉が出ない。選べない。 「私は……」  彼は、私に支えられていた。しかし、私は、私に、依存していた。  彼の思いは、決して偽物ではなかった。  彼は本当の意味で、私を愛してくれていた。  でも、愛し合うことはできていなかった。  彼は私の言葉を待ってくれている。静かに、じっと。 「私は、自分がこの世で最も不幸な人間だと勘違いしてた」  ちがう。もっとふつうの言葉を。今、彼にかけてあげるべき言葉は。 「私は、自分のことばっかりで……」  愛し合っていたと信じてこの世を去る彼に、私は何と声を掛ければいいのだろう。  あなたを想い続けてきた。  あなたをただひたすらに想い、生きてきたのだと。  彼は首をかしげ続けている。  わかっていない。言わなきゃならないことがある。それなのに私は。 「ありがとう。本当に、ありがとう」  私は咄嗟に、ありきたりで、ふつうの言葉を選んだ。  癖になっていたのだ。  彼は細くなった腕で私を抱きしめる。彼に包まれたときのぬくもりは、以前と変わっていなかった。  ブレスレッドが窓に差し込む光をすべて吸い尽くし、橙の輝きを増す。だんだんと目を閉じるみたいに、暗く、深く、落ちていく感覚。  自分を知るために、私は彼に出会った。  私は決して、彼に本心を明かすことができない。  私はまた、思うだけだ。
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