9人が本棚に入れています
本棚に追加
第一章 壊れ始めた浴室
髪の毛をかく。彼の癖毛は二、三度跳ねて元の位置に戻る。その動きにつられて、というより無意識に、私も髪の毛を触る。人差し指と中指、薬指の間に少なくとも二、三本ついてくるのはわかっている。彼のようにバウンドすることはない。万年癖毛と万年抜け毛、どちらの方が辛いだろうか、と取り留めとめのないことばかり私は考えている。
家族連れの多い飲食店に訪れたのはいつ以来だろうか。予約はしていなかったものの、今日行こうと心に決めていたお店もあった。それなのに彼が、ここでいいや、と言った。だから気持ちが変わってしまった。よくあることだ。
特有の雑音に安心感を覚える。しっかりとは聞き取れない話し声。フォークやスプーンがお皿に当たる音。心地がいい。
彼の飲みこんだものが喉を通過したのを確認してから、私は尋ねる。
「久しぶりだね~翔磨。お仕事忙しかった?」
ふつうの人に。そう見えるように。
「あ? ああ」
「どんなことしてたの?」
「どんなことって、そりゃあ、いろんなことだよ」
ノーダメージだ。この程度でへこたれる私ではない。
ぎこぎこぎこぎこ。料理を切り分ける音だけが響く。他の雑音がその音に収束されていく。そんな感覚に陥る。
まただ。だが、まだ大丈夫。
「さっきからずっとお肉切り分けてばっかりだけど、食べないの?」
「いいだろ別に。好きに食べさせてくれよ」
会話が続かないことに苦痛を感じることは、今さらない。こういうことは以前にもよくあった。むしろこれがふつうだったはずだ。
「なあ、穂乃香」
「ん?」
「美味しいか、それ」
手が動いていた。ドリアを混ぜていた。無心になって混ぜていた。ハッとなって手を止める。彼の言葉の語尾は上がっていたか、それとも下がっていたか。
「ほ、ほしい?」
「いらない」
不味くないか、というニュアンスだったようだ。間違えた。この些細なミスを、私はおそらく今日の夜の布団の中で後悔することになる。
目の前にあるものを確認する。ドリアではなかった。混ぜすぎて白い糸を引いている納豆に見えた。まだ納豆の方が美味しいのではないかと思った。
翔磨を観察する。前に会ったときより頬がこけている。寝る間もないくらい仕事が忙しいのだろうか。三つ歳が違うことをここまで遠く感じたことはない。
「疲れた、帰ろう」
「えっ、もう? ほとんど食べてないのに?」
立ち上がって財布を取り出そうとする彼の腕をつかむ。私はそこで、彼がブレスレッドを身につけていることに気がついた。珍しい。
「ブレスレッドつけてる。買ったの?」
「え?」
今日初めて、こちらを見た。先程よりも反応が良い。
「あ、ネックレスもつけてる」
どちらも淡い橙色のもの。その大きさは紺のスーツに不釣り合いに映った。彼を引きとめるため、無理にでも会話を続けようとする。
「いつもは腕時計以外つけないよね? そんなネックレス趣味だっけ? もしかして、職場の女の人からもらったものだったりして」
「うるさい」
ビクッと体が萎縮するのが、自分でもわかった。からかわれて、言い返す語気の強さではない。真顔でこちらを睨んでいる。
「お前には関係ない」
言葉に詰まる。
私は目を閉じる。すべてから逃げるように。
このまま寝てしまえば、明日が早く来るのではないか。そんなことを考えていた時期もあった。でも、居心地の良い保健室に運んでくれる時代はもう終わった。この癖は、彼の癖毛よりも確実に厄介なものだ。
それでも私が目を閉じるのは、これが最も有効であると知っているから。回復まで、あと数秒。あと少し。
世界の音が私の周りに復活し始める。すれる金属と陶器の音も徐々に近づいてくる。その中に、痰の混じった咳の音を見つける。
まつ毛に重さを感じる。今日のために新調したマスカラのせい? それは気のせいだ。
彼は座って、備え付けのお手拭きで何度も口を拭っている。
しかし、咳はなかなかおさまらない。そうだ。翔磨は今、体調が良くないんだ。
「大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」
立ち上がって、彼の額に手をのせようとした。
「触るな!」
翔磨は私の手をものすごい勢いで払いのける。あまりの力の強さに、私は硬直してしまう。
「……ご、ごめんなさい」
彼のこめかみが大きく揺れ動く。
「穂乃香」
目でも口でもなく、彼のこめかみが気になって仕方がない。
「この後、俺のアパートに来る予定だったよな?」
「え……うん」
「今日はやめだ」
「え」
「お前といると疲れるんだ」
ひどい、と言い返す気力はもう私には残されていない。
それでも、それにしても配慮がなさすぎる、と思った。……思ったのだ。
伝えても何も変わらないのではないか。そんな疑念がいつも頭をよぎる。
でも、ここで何もしないのはおそらくもっとだめだ。
「どうしたの? 今日なんか変だよ? 熱があるならアパートで看病するよ?」
できた。そう、思った。ありきたりでふつうの女の子を演じることに成功した。
「重い」
「え」
私は下手くそだった。
「お前はおせっかいなんだ。必要以上に。俺に……かまうな」
財布から引っこ抜いて投げた数枚の千円札が、ヒラヒラ舞ってテーブルに落ちる。
唖然として動けない私を置いて、彼は足早にレストランを出ていった。
私はぼんやりとブレスレッドとネックレスのことを考えていた。その二つのアクセサリーをどこかで見かけた記憶がある。だが、どうしても思い出せなかった。
昨日取り忘れたせいか、排水溝が毛でいっぱいになっている。面倒臭い。
つむじから毛先にかけて、水の流れとともに指を通すだけ。手の平に少しの間へばりついて、名残惜しそうに落ちていくのが見える。何本も何本も。
混合水栓が壊れて半年が経った。調節が難し過ぎるのだ。熱くなって冷たくなる。そしてすぐに熱くなる。冷たいときほど私の髪は抜けている気がする。半日浴び続けたら全部抜け落ちてしまうのではないか。洗う必要もなくなって、それはそれで楽そうだなとも思う。
飲食店の出来事を境に、翔磨の態度は冷たくなっていった。私に対する扱いが雑になった。電話に出てくれなくなった。私のことを平気でお前と呼ぶようになった。
不自然な気もした。ただ、他に女ができると男の人は変わってしまうという。いや、もしかしたらこれが彼の本性だったのかも。
私は、翔磨と初めて出会った日のことを思い出していた。
× × ×
大学一回生の夏。太陽光がアスファルトに反射して、下からじりじりと私の体を焦がすような、暑い暑い日のことだった。私は翔磨の妹である美紗都と一緒に、国道沿いの道をゆっくりと歩いていた。緩い下り坂の先には、綿菓子よりもっと濃密で美味しそうな雲が浮かんでいる。
「お兄ちゃんは賢いけど、不器用すぎるんだよね」
突然美紗都にそう言われた私は、反応に困った。このときに限ったことではないが、美紗都は常に気だるそうな話し方をする。
「不器用って、手先が、とか?」
「ちがうちがう。人間関係とか恋愛とか」
車が道路を行き来する音で、ときどき私たちの会話は中断を余儀なくされる。私は一拍を置いてから尋ねる。
「お兄ちゃんって、今何歳?」
「今年で二十二歳。学部は違うけど、同じ大学の四回生だから穂乃香もすれ違ったりはしてるかも」
「ふーん」
としか言いようがなかった。ピンとくる人はいなかったし、さほど興味もなかった。
大学には多くの出会いと刺激がある。
高校生の頃、先生にそのように聞かされていた。先生の言葉に間違いはなかった。
しかしそれには大きな落とし穴があった。出会うこととその関係が持続することは同義ではない。
大学ではうかうかしていると、会っても「よっ!」と手を上げるだけの友達、いわゆる「ヨットモ」ばかりが増殖する。私は入学して一か月も経たないうちにそのことに気がついた。大したことはない。遅かれ早かれみんなも気づくことになる。
それを居心地がいいと感じる人もいる。だが、多くの人は、同じ人と毎日顔を合わせることのできた中学高校時代の環境に、そのありがたみに気づく。いつだって大切なものは、失ってから気づくものだ。
美紗都は、そんな大学の薄っぺらな人間関係に私がもがき苦しむことすらも諦めかけていたときにできた、唯一の友達だ。
面白くもない講義に慣れ始めた頃、映画を観た感想を英語でまとめるという簡単なレポート課題の提出期限を、私は聞きそびれてしまった。それはもう仕方なしに、無理に笑顔を張り付けて、隣に居合わせた人に確認した。それが美紗都だった。
気づけば好きな映画俳優と監督の話で盛り上がって、おしゃべりが止まらなくなっている私がいた。
「私はやっぱりジュード・ロウかな。あのイケおじ感がたまらなくって」
「穂乃香、まだまだね。イケおじ代表はモーガン・フリーマンよ。ジュード・ロウなんておこちゃま」
「ミサトはガイ・リッチー監督のシャーロック・ホームズ観てないの? 十年前なのにあの美しく整った髭……」
「もちろん見てるって! ガイ・リッチーのアクションは最高! ……まさかその名が出てくるとは、やるね穂乃香」
この会話は一生忘れないと思う。このとき初めて、私は大学に進学して良かったと心から思ったのだった。
車が通り過ぎると、生ぬるい風が私の肌とペラペラのシャツを撫でていく。気持ち良くはない。
私の隣には脚を引きずるようにして歩く美紗都がいる。汗で萎れた癖毛は鈍い光沢を放っている。申し訳ないが私の大嫌いな虫に似ていると思った。もちろん言えるわけがないし、言うつもりもない。
ミサトは額の汗を拭いながら言った。
「あっつい。溶けちゃいそうだよ」
「ほんと。あとどれくらい?」
「五分もかからないくらいかな」
ついさっき春学期の試験がすべて終了した。大学からすぐのところにあるという美紗都の家にお邪魔させてもらうため、私たちは今、並んで歩いている。ただひたすらに歩いている。この五分が永遠のように感じられた。
着いてまず驚いたのが、一軒家であることだった。美紗都の醸し出す雰囲気がなんとなく下宿生だと思っていたのは、ただの私の勘違いであったようだ。私の想像力など当てにならないことばかりだ。
「ただいまー」
「お邪魔します……」
他の人の家にあがらせてもらうのは、中学生以来だろうか。高校は地元から遠いところであったため、いつしかそんな機会がなくなってしまった。少なからず緊張を覚え、声が小さくなってしまう。
「いいよいいよ。親は夜まで帰ってこないしさ。アイスでも食べよ」
そう言って私をリビングに誘導してくれた美紗都は、手も洗わずに冷蔵庫を漁りだした。私は、汗でべとべとした自分の手の平をじっと見つめる。
この家で帰宅時に手を洗うという習慣がないのだとしたら、私が「手を洗わせてほしい」と言うのは少々面倒くさい存在として映るかもしれない。
私は決して潔癖症ではない。それでも家の外から内を跨ぐとき、習慣として洗面所に向かうのが染みついてしまっている。
手を洗わないことの罪悪感に、協調性と不潔感のささやかな葛藤に駆られながら、私はリビングの扉を開けてすぐのところで立ちすくんでいた。
背後に大きな気配を感じた。
「きゃっ!」
私は反射的に体を縮め、小さな悲鳴を上げてしまう。おそるおそる振り返った私が見たもの。
第一印象は熊だった。
「誰?」
地響きが起こったような低くて深い声だった。そしてそれは、聞いておきながら単調で興味の無いことが明白な物言いだった。
「もーお兄ちゃんってば、いきなり人の後ろに立つ癖、やめたほうがいいって言ってるのに」
先程の美紗都の話を思い出す。親がいないと言っただけで兄がいないとは言っていない。慌てて頭を下げる。
「こんにちは! お邪魔してます。美紗都ちゃんの友達の穂乃香と言います」
「どうも。翔磨です」
「はい、お兄ちゃんパス」
そう言いながら美紗都は翔磨に向かって、袋に入った棒アイスを投げていた。くるくると綺麗な弧を描いて宙を舞うアイス。なぜかはわからない。私の眼はそれをスローモーションで捉えた。淡い水色。円柱の形をしている。
キャッチと同時に袋の破ける音がした。
パン、という音。
「あ」
まっすぐに突っ立っていただけの彼の首が初めて動いた。アイスは棒からもげて粉々になっている。
「力加減、下手くそ。はい穂乃香」
そう言いながら美紗都が、私の方にもアイスを投げていることに気がつかなかった。彼を見つめる私の頭を冷やせと言わんばかりに直撃したアイスは思った以上に硬い。硬すぎた。
「あたっ」
アイスが地面に転がる。翔磨の取りこぼしたアイスと同じ部分がもげている。この部分が弱いのか、それとも美紗都の投げ方が上手いのか。
「あ、ごめ。私も力加減できてないや」
そう言いながら二本目のアイスをくわえる美紗都に一瞥もくれることなく、翔磨はリビングを出ていった。
と思ったら戻ってきた。私の方をじっと見つめている。
「あの……な、なんでしょう」
「洗面所こっち」
そう言って彼はまた出ていった。私は数秒遅れて後を追った。
× × ×
がらがらがらがらがらがら。
風呂の蓋を閉めるとき、こんなにも耳につくのはなぜだろうな、といつも思う。次は必ず静かに閉めようと心に誓う。でも、その音を聞くころには忘れてしまっていて、その苦痛から逃れるために一秒でも短くしようと勢いよく閉めて結局大きな音が出る。この後悔と忘却のループを一生繰り返しているような気がする。この事象を人生に当てはめて考えてみる。そんなものかな、と自分を慰める。
排水溝の詰まりの原因を直接手でつまんで捨てる。ついさっきまで自分の体の一部であったものにここまでの不潔感を覚えるのはおかしいと思う。いつまで経っても慣れることがない。
以後、美紗都の家には何度もお邪魔することになった。大体が試験終わりだったと記憶している。いつも親はいなくて、必ずと言っていいほど翔磨がいた。
翔磨と私の会話が美紗都ほど弾むことはなかった。それでも少しずつ会話が増えていく感覚はあった。不愛想に見えるあの態度も、美紗都いわく緊張の現れらしい、ということを後から知った。
ドライヤーの熱風が出なくなり始めたのはいつのことだったか。これも混合水栓の故障と同時期だったような気がする。せっかく温まった体が冷やされていく感覚。これじゃあ扇風機と何ら変わらない。夏なら良いのだけれど、この時期は辛い。
美紗都が「お兄ちゃんのこと、カッコいいと思う?」というようなことを、遠回しに聞いてくるようになるのに時間はかからなかった。少しして「穂乃香がいいなら、お兄ちゃんと付き合ってほしいな」と直球で頼んでくるようになった。
曖昧な態度をとり続けていた私につけ込むように、美紗都は翔磨と私の予定を半ば強引に聞き出し、デートコースまですべてお膳立てして、二人きりで遊ぶよう仕向けた。二十二時までの健全なデートを数回経たのち、帰り際に彼はもじもじしながら切り出してきた。
「好きです。俺の話を、親身なって聞いてくれるところとか、映画の話をしてるときの顔とか。えっとあとは、なんだったっけな。たしか、そう、優しいところ。とりあえず全部です。よかったら付き合ってください」
細かくは覚えていないがこんな感じだった。今思い出しても早口だったなと思う。
告白を待っていなかったと言えば嘘になる。言葉の詰まり方から察するに、美紗都が台詞を考え、叩きこんだのだろう。駅の改札前ではなく、もっと適切なタイミングがあったはずだ。
それがわかった上で、私はその告白を承諾した。すべてを許してしまえるくらい、純粋に、嬉しかったのだ。
これは付き合う前から予想していたことだが、翔磨とのお付き合いは波乱万丈、山あり谷ありの情熱的恋愛……になるわけがなく、それとは程遠いものだった。誰もが経験するような、ありきたりなもの。喧嘩もなく、今まで上手にやってきた。
と思っていたのは、どうやら私だけだったらしい。
翔磨の告白から二年の月日が経った。今ではその初々しさが懐かしい。
最初のコメントを投稿しよう!