6.ファミレスの可能性

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 彰は駅の前を素通りした。  20メートルほど進んだ場所に、黒っぽい小さなオフィスビルがあった。左右と建物の中をサッと確かめて、自動ドアから中へ入る。制服姿の高校生が立ち入る場所ではないだろうが、ここがどこかなんて知ったことではない。  郵便受け数個とエレベーター一台だけの、狭く味気ない物静かな空間。表よりも若干涼しい。  戸惑った様子の桜澤をチョイチョイと壁際に招く。壁を背にして立った彼の正面に回ると、彰は右手を遠慮がちに前に伸ばした。相手の顔のすぐ横の壁に、辛うじて届いた指先をつける。 「お前の願い事って、これで合ってる?」 「え?」  腕一本分よりも近いところに、圧倒的に整った顔がある。彰は二重の目で、自分より少しだけ高い位置にある清らかな瞳を見つめた。桜澤は動かない。  ファミレスでの数々の言動に、先ほどの発言。読み違えてはないはずだ。神社で引いたおみくじにもこんなことが書かれていた。「満月を隠していた雲が徐々に払われていくように、見えなかったものが徐々に明らかになる。」  心臓は壊れそうなくらい激しく打っていた。彰はもう一歩近づいた。壁との、桜澤との距離が縮まり、伸びていたひじが自然と曲がる。トン、と手の平を壁につき直した。抑えた低い声で再度尋ねる。 「……合ってる?」 「……」  桜澤の顔つきが変わった。彼は彰が壁についている手をつかむと、それをそっと下に下ろした。え、と思っている内に、今度は彼の反対の手が彰の左の頬を包んで、そして――。 「森田……俺は恋愛初心者だし、男だけど、本当にいいの?」  熱い、柔らかい唇を彰のそれから離すと、桜澤はかすれがちの声で言った。彰は手で自分の口を覆う。目を合わせられず、視線を明後日の方向にツイと逸らした。 「待って。その……キス、手慣れてない?」  この展開は予想外だ。何というか、もっと草食系だと思っていた。既にやかましかった心臓がさらに大変なことになっている。  桜澤は手を下ろすと、フッと、初めて見る微笑みを浮かべた。 「元カノがいるって、知ってるよね?」 「そうだったわ……お前、ギャップ何個持ってるんだよ」  少し得意げで、すごく色っぽい笑み。彰の顔は今や火を噴きそうなほどに熱かった。誰が初心者だよ、と憎まれ口を叩いてやりたい気分になったが、自分の本心は自分が一番分かっている。そんな桜澤のギャップに、彰はどうしようもなく惹かれてしまうのだと。  しばらく胸の鼓動に意識を向けていると、桜澤が表情を改めた。いつの間にか、彼の顔もサクランボみたいに赤くなっていた。彼が言う。 「それで、返事は?」 「返事っていうか、俺から仕掛けたんだけど……好きじゃなかったらこんなことしないよ」  おかしさと恥ずかしさとで、口元が緩んだ。そこへ、スッと桜澤の手が伸びてきて、再び彰の頬に優しく触れた。 「俺も、森田のことが好きだ」  綺麗な瞳にまっすぐに射貫(いぬ)かれる。 (何か青春してるな、俺)  ぼうっとする頭の片隅を、いつか見た母親の笑顔がかすめた。桜澤の目蓋がゆっくり閉じてゆき、彰も釣られてそうする。気づけばまた、唇を奪われていた。頬に、唇に、桜澤の体温がじんわりと移ってくる。胸の中にも温かさが広がって、世の中が涼しい十月であることを忘れてしまいそうだった。  呪い返し? どんと来いだ。  でもその前に、この際お礼参りということで、もう一回桜澤を神社に連れていったらダメだろうか。  
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