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⑨
「あ、先生。お疲れさまです。珍しいやないですか、こないな時間に」
若い女性の声が聞こえた。
「今日はもう上がりだから、幸希花ちゃんに会ってから帰ろうと思って」
ああ、と納得したような声が聞こえる。
「お父様はもう来た?」
心臓が強く脈打った。
「今さっきトイレから戻ったばっかりだからアレですけど、今日はまだ来てへんと思いますよ」
音を殺して深く息をつき、カウンターの下で声の主が少しでも離れるのを待った。
「そうそう、幸希花ちゃんのバイタル見せてくれる?」
「ああはい、どうぞ」
足音がふたつ部屋の奥へ移動するのが分かり、俺は足早にナースステーションの前を通り抜けた。
そのまま最初の角を右へと曲がって廊下を進み、いったん立ち止まる。
長い廊下の左右には無機質な照明の下、同じ扉が等間隔で続いていた。
その先で幸希花は眠っている。
そう意識しただけで掌がじんわりと濡れていくのが分かった。
ここにきて俺はひどく緊張していた。
その原因の大半は幸希花に会える興奮からではない。
海藤と出くわしてしまう恐怖が、俺の心を強く揺さぶっていた。
面会終了時間が近いこともあり、夜の病棟は静かだった。
耳を凝らせばあちこちの部屋から呼吸器が一定のリズムで動く音が聞こえてくるが、不定期な雑音がないところをみると、おそらく患者とナース以外の人間はすでにこの階にはいないのだろう。
俺は足音を立てぬよう急いで廊下を進み、825と書かれた部屋の前に立った。
入り口脇に下げられたプレートには、桐原幸希花、とだけ書かれている。
どのような字を書くか初めて知ったが、不思議な胸騒ぎがした。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
ドアに嵌められた磨りガラスの向こうからは柔らかな昼光色の灯りが漏れ、やはり定期的な呼吸音が穏やかに聞こえている。
部屋の中に海藤がいる可能性を考慮してドアの前で息を殺すが、人の気配は感じられなかった。
意を決してノブに触れた。
軽く手に力を加えただけでドアがスライドして、清潔感のある明るい病室が目の前に現れた。
壁際には医療機器が並び、大きな窓の前に置かれた大きめの医療ベッドの上でひとりの女性が呼吸器に繋がれて静かに寝息を立てている。
桐原幸希花。
思わず声に出していた。
「こっち」
文香が来たのだと思って振り向いたが、そこには閉じたドアがあるだけだった。
幻聴?
いや、確かに聞こえた。
「早く」
間違いなく聞こえた。
いや違う、聞こえたのではない。
響いたのだ。
直接、心に。
「私の、手に」
文香の声ではなかった。
と、いうことは、まさか。
いや、そんなことがありえるはずがない。
恐る恐る幸希花に目を向けたが、部屋に入ったときと同じ体勢で定期的な呼吸を繰り返している。
生唾が湧いてくる。
「おい、あんたなのか? 今、話しかけたのは」
自分でも何を言っているのか分からなかったが、すでに先ほどの声は幸希花からのメッセージだという確信めいたものがあった。
しかし問いかけに対する返事はなく、代わりに廊下をこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
「早く」
俺は自分の行動が正しいのかどうかさえ分からないままベッドの脇に立ち、布団の中へと手を入れた。
もう間もなくドアが開き、文香が顔を覗かせるだろう。
そのときに幸希花の手を握ったままで、俺はなんと言い訳すれば良いのだろうか。
言いようのない不安をよそに、俺の手は誘われるかのごとく幸希花の右手に触れる。
刹那、それに合わせたように数メートル先のドアがゆっくりと開いてゆく。
文香さん、と言いかけて俺は凍りついた。
ドアの向こうから姿を現したのは、オールバックに薄い色のサングラスをかけた男だった。
心臓が、どくん、と大きく波打った。
いつかスマホ越しに見た、朱雀会若頭の表情がにわかに怒気を帯びてゆく。
「誰やこら、お前!」
恐ろしくどすの利いた声が病室に響き渡った。
度を超えた恐怖からか俺の意識はまるで幸希花に吸い込まれるように薄れ、膝から力が抜けてゆく。
憤怒の形相でこちらに向かってくる海藤に、真っ青な顔をした文香が駆け寄るのが見えた。
すべてが悪い方向に向かっていた。
ああ、やはり今日は運が悪いのだ。
海藤の腕が胸倉に伸びてくる。
俺の意識は、そこで途切れた。
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