オーダー:パパの焼き飯

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⑧  車が職員駐車場へ滑り込んだとき、車内の時計は午後8時41分を指していた。 「ごめんなさい、2号線が工事だって知らなくて。でも今ならまだ海藤さんが来るまで時間があります。守衛さんに話を通してくるんで、ちょっと待っててください!」  早口でまくし立てた文香が通用口へ向けて走ってゆく。 「いえ、気にしないでください。文香さんが悪いわけじゃないので!」  ちゃんと聞こえたのか分からないが、文香はいちどこちらに軽く手を挙げた。  今日はきっと、たまたま運が悪かっただけだ。  そう言いかけて口をつぐむ。  思えば今日は運に見放された日だった。  文香への手紙を預けるときには笹塚とかいう失礼な女と出くわすし、待ち合わせの7時まで気を落ち着かせるために打ったスロットでは2万円が溶けて無くなった。  チェックインしたホテルはカビ臭い上に暖房の勢いが弱く、とてもではないが快適な宿泊などできそうにない。  とどめに全く予期していなかった緊急工事で渋滞にはまり、海藤と出くわす確率が高くなってしまった。 「行きましょう!」  声に振り向くと、文香はすでに職員通用口の手前で俺に手を振っていた。  早足で近づくと、文香はひらりと踵を返す。 「守衛さんは問題ないです。こんなときのためにいつもお菓子あげといて良かった」  屈託のない笑顔を見ているうちに、運が悪いことばかりではないと思えてくる。 「どうしたんですか? 時間もないので早く行きましょう」  俺は軽くかぶりを振り、余計なものを頭から押し出した。  幸希花に会う。  ただそれだけのために俺はここに戻ってきたのだ。  守衛室に笑顔のまま手を上げて通り過ぎる文香に続いて、俺も軽く頭を下げる。  部屋の中では制服と帽子を身に着けた初老の男性がこちらに微笑んでいた。 「榊原さん。優しくて、私の数少ない友達なんです」  職員通路を進みながら文香がぽつりと呟く。 「数少ないって、とてもそんな風には」  俺の言葉に自重気味な笑い声が返ってくる。 「そうですね、色んなことを話してくれたから、今度は私が」  エレベーターの手前で立ち止まり、寂しそうな笑顔のまま文香がこちらを見る。 「私、ダメなんです。色んな人からいいように利用されて。だから本気で誰かを信用できなくて」  意外だった。  愛らしい見た目とおっとりした口調、会話の端から覗く知性はどれも女性としてだけではなく、人間として好かれる要素でしかない。 「初対面の人にこんなこと言うのも変なんですよね。私、やっぱり冷静じゃないのかも」  呼び出しボタンを押して大きくため息をついた文香は、小さな肩を落とした。 「実はこんなルール違反なんて初めてで。だから今、かなりドキドキしてるんです」  エレベーターが近づいてくる音がする。 「両親が厳しかったから誰かに怒られるのがすごく怖くて、ちゃんといい子にしてないとダメなんだって自分に言い聞かせて。だから他人に愛想よく振る舞って、みんなに好かれようとして、それを利用されて」  到着を知らせるベルの音に合わせて文香は言葉を切った。  表情に緊張が宿るのが手に取るように分かる。  ふたつの視線の中でドアがゆっくりと開いてゆく。  文香が安堵のため息を漏らすのと同時に、俺の胸からも長い息が溢れ出した。  エレベーターに乗り、8のボタンを押してから文香が振り返る。  その背中で扉が閉まってゆく。 「でも、さっきの榊原さんはそんな私を叱ってくれたんです。無理して人に好かれる必要ない、って」  瞳が僅かに揺れているのが分かった。 「榊原さんにも他の同僚にも、いつもお菓子を渡してたんです。そしたらあるとき、榊原さんが見ていて辛いからもういらん、って。何でって聞いたら、先生とか看護士が、頼みもしないのに色んなものあげてバカみたいだって私のことを話してたって言われて」  文香は扉に向き直り、続けた。 「それで私が、少しでもみんなに好かれたいからそうしてるって話したら、怒られちゃいました」  ほんの少しだけ声のトーンが上がった。 「金とかモノに寄ってくる奴は信用できん。そんな奴らに無理して好かれる必要ない。本当に信用できる人間は、金がなくても一緒にいてくれる奴や、って。だからそれからは、榊原さんとは友達としてお互いにお菓子の交換してるんです」  ユウキのことが頭をよぎった。  金がなくても、地位も名誉もなくても、ずっと側にいてくれたのはユウキだけだった。  一緒に辛い思いをして、それを乗り越えて、バカみたいなことで笑って。  そう、榊原さんの言うことは真実だ。  それは俺が身をもって体験している。 「俺にとってそれはたったひとり、ユウキでした」  少し間が開いて、ふふ、と文香が笑う。 「きっとそうなんだろうなって思いました。だから私はルールを破ることにしたんです。それに私たちはもう、仲間ですからね」  笑顔を浮かべた文香に合わせるように、8階のフロアへ繋がる扉が音もなく開いた。 「私も孤独だったから。仲間だって言われたとき、すごく嬉しかったんですよね」  エレベーターを出てゆく文香をぼうっと見送りながら、鼓動が高鳴っているのが分かった。 「さ、早く」  文香が真剣な目で俺を手招いていた。  エレベーターを出て、真っすぐに伸びた狭い廊下を進む。  突き当りを左に折れる手前で文香が立ち止まり、声をひそめた。 「ここを曲がるとナースステーションがあります。カウンターの下に隠れられますので、私が中に入って話をしている間に通り抜けて最初の廊下を右に曲がってください」  ぎりぎり聞こえる程度のトーンだったが、緊張しているせいで声が僅かに震えているのが分かった。  俺は言われたとおり身をかがめ、足音を殺しながら角を過ぎたところで息を潜めた。 「それと、これからは川又さんのことは篠崎さん、って呼びます。そうじゃないと偽名を名乗ってる意味ないですから」  そうか、と素の声が漏れて慌てて口を閉じる。  やはりこの人は頭が切れる。  自分にない部分を補ってくれそうな期待から、思わず頬が緩んだ。 「幸希花ちゃんの病室は825です。まっすぐ行って右側にあります」  そう言うと文香は俺の横を通り過ぎ、お疲れさまです、とナースステーションへ消えていった。
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