売り物の愛は逃げたがり

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「もっと腹一杯、うまいもん食わせてやる」  差し出された手が、大きくて、温かそうだったとか。  笑みがちに見つめる赤い瞳が、粗野な態度にそぐわず無邪気で綺麗だったとか。  目を引く、雪よりも白い髪が、美しいと思ったとか。  飾り立てられた理由ならいくらでもあったと思う。  ただ、その手に導かれて、  ──人生を、身体を、命を。  その瞳の為に売り物にしたのは、確かな事実だった。 「っぐ、う、っえ……」  胃が痙攣している。怯えているかのように。びくりびくりと震えて、内容物を吐き出させる。やや長めの薄墨色の髪を耳にかけ直し、荒い息をつく。震えた手で口元を拭う。口内に残る味が気持ち悪くて、リオはかすかに顔を歪めた。しゃがみ込んで、呼吸をぼんやり繰り返す。胃の震えは治まって来ているようだ。自分の呼吸ばかりが、冷え切って思考をやめた頭に響く。不意に、がた、と無遠慮に背後の扉が音を立てた。 「よお。相変わらずやってやがる」  その場に不相応なほど陽気でぞんざいな態度で室内へずかずかと入ってきたのは、リオにこの商売を教えた男だった。どこへ出ても目立つ白い髪を、かったるそうに掻き上げる。 「どうだ、調子は」  気さくな問いかけに、リオは目を閉じた。深呼吸を二、三度繰り返し、伏し目がちの白銀の瞳を開く。吐瀉物の流れきっていない床を眺め、ぽつりと返した。 「15分……いや、10分あれば大丈夫だ」 「おうよ」  大丈夫なのか? マジで言ってんのか? なんて甘い問いかけはない。そんな言葉がわずかばかりでも垂らされれば、縋り付いてしまいたくなるのを知っているのだろう。リオとこの男──オウルは、ただの紙切れ一枚で繋がれた利害関係。リオは食うにも寝るにも困らず、オウルはそれらを提供する代わりリオを売った。 「次も予約が詰まってる。すげえよ、おまえは」  その賛辞に、リオはかすかに自嘲の色を込めた笑いを漏らす。 「どういう意味で言ってんだか……」 「あ?」  オウルは戯れるような笑みを浮かべた。 「んなもん、決まってんだろう。男をこんだけ(たぶら)かしてる。娼婦なら掃いて捨てるほどいるってのに、おまえを求めて男が列をなす。大したもんさ」  こともなげに言って、オウルはスーツの懐から煙草を出し火をつける。ふうっと煙を吐き出し、床をちらりと一瞥した。 「……リオ」  ため息のように言うその大きめの口元からは、煙がふわりと所在なさげに漂う。それを眺めていると、無骨な乾いた指がリオの細い顎を掬い上げた。 「えっおい、煙草、てか今吐い……」 「うるせえ」  機嫌よく唸る獣のように一蹴したオウルの唇が、リオの唇を(ついば)む。ほんの僅かに抵抗を示したリオの手は、その厚い胸元にあてがわれたまま役目を果たすことはなかった。  厚い舌が、熱い舌が、リオの唇をノックするようにつつく。笑いを含んで。リオは観念して、小さく口を開けた。オウルの舌がぬるりと忍び込んで来て、リオは背中がこまかく震えるのを感じた。熱い舌が絡んでくる。にゅるりとした感覚に肌が粟立ち、思わずオウルのスーツを握り締めた。夢が壊れるように、ふっと身体が離される。舌の感触の残る自らの口元を無意識に触れれば、オウルはくしゃりと少年のように笑ってリオの頭を乱雑に撫でた。 「ご褒美だ。いい子にしてたらまたくれてやる」 蕩けそうになった脳髄を、必死に引き戻す。この人と俺は商品と店主。この人と俺は商品と店主。この人と俺は商品と店主……。この行為は商品のメンテナンスでしかない。この行為はただのメンテナンス……。大丈夫だ。これはただのメンテナンスであって、この人と俺はただの利害関係……。  自身の感情がすでに売買の間柄を超えているのは理解していた。けれど、口付けられるたびそれを超えてしまいたくようなったのはいつからだろう。  ぐちゃぐちゃになった心を置いて、リオは目を閉じた。俺は、この人の、売れ筋の、商品。 「……10分待ってて」 「おう」  リオは目を逸らし、笑みを刻んだ。オウルは気が付かないのだろうか。自分が求めているのは、住処でも食事でもなく、オウル自身であることを。身分も正体も知らない男共に抱かれるたび、オウルを空想に描いて抱かれていることを。  オウルは去って行った。微塵の名残惜しさもなく。  それがかえって救いになることに、きっと彼は気が付いていないのだろう。  リオはシャワーヘッドを引っ掴み、吐瀉物を排水溝へと追いやる。  汚いもん、見せちまったな……ほんの少し、着飾る乙女のような気持ちがもたげて、リオはかすかに笑う。自身の吐き戻した物を見せて、嬉しい者などいない。特殊な性癖でもない限り、それはただの羞恥を呼ぶ。  リオが心を許していない相手に身体を預けた時、嘔吐感に襲われるのはオウルもよく知っていた。  面倒な商品なのはわかっている。けれど許されているのは、リオが売れ筋の男娼だからだろう。売れもしない男なら、奴隷なり何なり、売れる方へと押し流してしまう。オウルはそういう男だった。 「どうした、ご機嫌ナナメか、リオ」  そう囁いて引き戻してくれたのはいつのことだったろうか。きっと彼は気がついているのだろう。リオから向けられる、色を秘めた欲望の視線に。 「俺が嫌いになったか、ん?」  撫でるように引き寄せられた頭に、口付けるように囁いた甘く低い声。それがリオを縛る。束縛して、所持品にして、留める。それを解っていながら、彼はこれを武器にしたのだろう。わかっていた。わかっていた。けれど。 「居てくれねえか、俺と」  その甘美な言葉に、容易く引っかかってしまうほど、リオはオウルに惚れ込んでいたのだ。
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