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朝は寒いものだ。朝霧の立ち込める街の外気に触れなくとも、朝は寒いものだと、リオは知っている。
オウルに抱かれた後の、透明な痕跡をかき消すように、夜半の客は手荒かった。奴は知っているのだろうか。飼い主と犬ころの間で交わされた遊戯を。否──知るはずがない。彼は、オウルは、いつだって微塵の痕跡も残さずにリオの疲弊しきった身体を慰める。口付けも、肌を辿った舌も、シャワーを浴びてうがいをして消してしまわなければならない。このふたりにおいて、所有の証は契約書だけで良いのだ。残り香も許されない身体に、唯一残されたとすれば、それはリオの身体に染み付いた記憶だけだろう。
隣に寝汚く横臥して涎を垂らしている男に、ぼんやりと身を寄せる。シーツが乾いた音を立てて、まとわりつく。すん、とちいさく鼻をひくつかせると、リオは苦々しく笑った。
趣味の悪い香水だ。
客を見送った部屋を片付けていると、階段をのぼるゆったりとした足音がぼんやりとした意識を覚ました。
「よお」
古くからの友人にでもかけるような気軽な声に、リオはしゃがみ込んだまま軽く振り返る。
「次?」
「いんや。まあ、詰まっちゃいるが、てめえも休まなねえと身が持たんだろ。てわけで、2時間休憩だ。ご苦労さん」
言いながら、剥がされたシーツの塊を悠々と踏んづけてリオへと歩み寄る。
「朝飯、何食うよ」
「え……なんでもいい」
「良かねえだろうよ。せっかくの休みをてめえ、鳥の餌でも我慢する気か」
「て言われても……べつに……人間の食べ物ならなんでもいい」
漠然とした好みの話は苦手だ。
何がいい? 何が欲しい? 何が好き? そんなリードのない問いかけは、答えが見えない。突然外にほっぽり出されて、そら、何かいいもん取ってこい、と言われたような、情けない気持ちにさせられる。
困惑を押し隠すことなく表情に表すと、オウルは大仰なため息をついて肩をすくめた。
「張り合いがねえなあ」
「……ごめん」
漠然とした謝罪を口にすると、頭に厚みのある手が乱雑に置かれた。そのまま、犬か子どもにするようにぐしゃぐしゃと撫でられる。かがみ込んだオウルが、薄暗い部屋の中、少年のように笑った。
「仕方ねえ。俺が連れ出してやるよ」
「え」
うつむいていた頭を、咄嗟に上げる。普段、仕事や、仕事関係の買い出しでもなければ、この娼館から出ることは滅多にない。あまつさえ、娼館のオーナーであるこの男と連れ立って食事など、した試しがない。──初めてこの男に拾われた日を除けば、だったが。オウルはがさつな手つきで自らの後頭部をがしがしと掻いた。
「たまにゃいいだろ。こんな野郎くせえ部屋に籠ってばっかじゃ、晴れるもんも晴れねえだろうし」
「いや、俺はべつに……慣れてるし」
「うるっせえ。黙っていい子についてくりゃいいんだ」
横暴な言い方は、この男の癖だ。しかし、食事に誘われたという珍事に、腹の立て方も忘れてしまった気になった。ぼんやりしているリオににやりと笑って、オウルは踵を返し片手を上げた。
「わかったら部屋片付けて着替えな。めかしこんで来てくれてもいいぜ」
言うなり、返事も待たずに戸口へ向かう。扉を閉めかけた所でふと止まり、隙間に顔を突っ込むといまだ茫然としているリオに軽く鼻を鳴らした。注視を呼びかけるように、ちっちっと舌を鳴らす。
「帰ってきやがれ、馬鹿。それとも何だ、朝っぱらから野郎と飯食うのがそんなに嫌か」
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