毎年人が消えていく

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毎年人が消えていく

 最初に「あれ?」と思ったのは、ラボに入って半年ほど経ったころだった。  大学院に進むための試験がちょうど終わったころの話だ。秋だったと思う。  人が消えたのだ。  ホラーではない。でも、毎日いた人がすうっとフェードアウトしていたら、あなたも「あれ? なんか変だぞ?」って思うだろう?  詳しい話をする前に、ラボの人事システムについて少し知って欲しい。  研究室にはピラミッドがある。  教授がトップ。一番下が大学院生。そして教授と大学院生の真ん中に、中間管理職である准教授や助教授がいる。なお学部生はお客様なので枠外だ。    余談だが、この構造は日本独自の文化らしい。他のお国ではふつう一個のラボにひとりの先生しかいない。上司が多いのが良いことか悪いことかは分からない。  よく言えば丁寧に教えてもらえる。悪く言えば気苦労が増える。先生たちから見ればまた話は変わるだろうが、学生から見た違いなんてそんなものだ。    何が言いたいかって、トップは教授だが、実際の上司は違うということだ。  私の上司は准教授だった。ここでは川村先生としておく。 「教授もひどいよねえ。計画書を今日中に持って来いって。いきなり言われたって、そんなすぐにはできないよ。赤井さん、僕の代わりに作らない?」    のんびりした話し方と、生真面目すぎてときどき会話が噛み合わないところがチャーミングな先生だった。  この人の講義は分かりやすかったし、こぼれ話も多くて好きだった。研究テーマも面白そうだったので、この先生の下で働こうとすぐに決めた。 「いや、私じゃ作れませんよ」 「大丈夫だよ、できるできる」 「あはは……、なんか大変ですね。教授って無茶振りもするんですね。今日中って、かなり急じゃないですか」  昼食時はとっくに過ぎていた。計画書が何か知らないが、昼過ぎから新しい仕事が降ってきたら嫌だろう。中間管理職も大変だなと思いながら相槌を打つと、川村先生は肺がすっからかんになりそうなほど深いため息をついた。   「あの人はいつもそうなんだよ。僕が嫌いなんだ」 「何かあったんですか?」 「さあ。僕のアイデアが気に喰わないんじゃない? やってられないよ、まったく。人が減ったからってこっちに八つ当たりしないで欲しいよね。山上くんは来なくなっちゃうし、坂口さんがやめたのだって別に僕のせいじゃないっていうのに。そんなの本人たちの問題なんだから仕方がないじゃないか。責める方がかわいそうだよ」  山上。坂口。名前だけはホームページに乗っていた先輩たちだ。たしか修士の一年か二年だった気がするが、会ったことはない。  首を傾げる私に構わず、川村先生はキーボードを叩きながら独り言のように呟いた。   「阿部くんにいたっては教授のせいだと思うけどねえ。自分で面倒みてたくせに」  阿部は知ってる。ひとつ上の、修士一年の大学院生だ。川村先生のグループだったと思ったけれど、よく教授室に出入りしていた不思議な院生だ。優しい顔つきの人で、いつでも笑っている印象があった。  そういえば、最近見かけていない。言われて初めて気がついた。  本人に特におかしな様子はなかった。デスクも実験台もほどほどに散らかったままだし、阿部さんについて誰かが何か話していた覚えもない。  まるで初めからそこに人がいなかったみたいに、本人だけが消えていた。人ひとりいなくなったのに誰も気にしていない。なんとも言えない気味の悪さで腹の底がひやっとしたのをよく覚えている。  後になって、彼は研究室を移ったのだと人づてに聞いた。  ブラックな研究室では、一年にふたりずつくらい、学生が音もなく消えていく。根回しをして上手く所属を変えるパターンは、ガチャで言ったらSSRなみに良い方だ。たいていは心を病んでラボに来られなくなる。そして何ヶ月かすると、ホームページから名前がそっと消えているのだ。    あれ? なんかこのラボ、ヤバい……?  気づいたときにはすでに大学院の合格が決まっていた。 「入()おめでとう、赤井さん」  先輩が半笑いで言う。  笑えないブラックジョークだった。
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