みんないつ寝てるの?

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みんないつ寝てるの?

 不穏な雰囲気をどこかで感じつつも、おおむね研究室は楽しい場所だった。朝の八時に来て、ほどほどに実験し、先生に今日の成果を報告し、夜の七時~八時に帰宅する。それが週六日続く。休日は日曜日だけだ。  バイトができない程度には拘束時間が長かったけど、きついとは感じなかった。朝から晩まで実験するのは楽しかったし、趣味の読書やゲームをする時間もまあ取れた。    変わったのは入院――大学院に入学した後からだ。   「えっ、もう帰るの?」  いつも通りに帰ろうとしたある日、川村先生が無表情でそう言った。  時計を見る。  午後八時。    ノルマはこなした。十二時間は働いた。いつもに比べれば長くいる方だ。  持ち上げた鞄を抱え直しつつ、私は川村先生の機嫌を伺うように作り笑いをした。 「今日の分は終わったので、お先に失礼します」 「まだ教授だって帰ってないのに」    だから何だよ。  そうは思ったけれど言う勇気はなかった。  あまり周りを気にするたちではないけれど、それでも分かる。なんだか空気が冷たい。どうやら先生はご機嫌ななめだ。周りの学生も、何やら耳をそばだてている気がした。   「院生になったんだから、もっとちゃんと実験しないと卒業できないよ」  そういうものだろうか。たしかに誰もまだ帰っていない。 「でも、今からだと反応時間が――」 「測定はかけたの?」  最後まで言わせてすらもらえなかった。いらついたようにキーボードを叩きながら、川村先生は周りに聞かせるように声のトーンを上げた。   「少ししか作れなかったんでしょう。僕だったら君の倍は作れたけどね。君には難しかったかな。あの量じゃ、夜間測定しないとデータが取れないよ」 「夜間測定?」  耳慣れない言葉をおうむ返しに返す。はああ、と川村先生は呆れたようにため息をついた。人の神経を逆なでする動作が嫌味なほどお上手である。 「二時間以上かかる測定は夜しかできないんだ。昼にやったらみんなの邪魔になるでしょう? まだやったこともないの? 君、いっつも早く帰るもんね」 「それは、その、すみません」  八時だぞ、八時。別に早くはないと思うけどな。  内心で首をかしげたけれど、責められるとつい謝ってしまうのが日本人的習性というものだ。   「夜間測定は何時からかけたらいいんですか?」  面倒だけど、一度言うことを聞けばすむならまあいいか。こんなことで言い争うのも疲れるし。  抗議しないのは同意と同じ。一度許せば際限なく状況が悪くなるという簡単な原理を、当時の私は知らなかった。   「十一時」 「えっ?」 「だから、二十三時から六時までだよ」  耳を疑っている間に、川村先生は話は終わりとばかりに席を立ってしまう。   「六時にはサンプル回収しておきなよ」  ぱたりと目の前で扉が閉じた。  後ろの先輩たちを振り返る。疲れ切った目が、同情交じりの力のない笑みを浮かべていた。 「……おつかれさま」    おめでとう、今日から君もラボ畜だ。  ……地獄に落ちろ!
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