蛇を待つ

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 えいやっ、それっ。  男衆の威勢の良い掛け声が響いた。  野良着のままの男たちが、大きな箪笥を持ち上げて座敷から運び出していく。座敷の襖は取り払われ、隣り合う座敷をつないで大広間になった。そこに、どこからか借りてきた煌びやかな屏風や、真っ白な絹布が取り付けられていく。  えつ子は土間で、村の女たちとともに宴席で振る舞う料理の下ごしらえをしていた。明日に控えた婚礼の準備に、近所の人々が集まり家中ひっくり返したような大騒ぎだ。 「そろそろ鯛が届くそうです」  下女に呼ばれて、えつ子の母ツネが慌ただしく外へ出ていく。ツネの姿が見えなくなると、張り詰めていた空気がふとゆるんだ。 「この忙しい時季に祝言だなんて、迷惑な話だ」 「仕方ないさ、喪が明けるのを待ちわびての祝言なんだから」  ツネがいなくなったのをいいことに、女たちは好き勝手にしゃべり始めた。 「家督を継がせたとたん嫡男が流行り病でぽっくりだろ?運がないねぇ」 「まぁ次は丈夫そうだから安泰だろ。正雄さんもようやく落ち着いて隠居できるってもんだ。隠し子騒動も一段落ついたことだし」  その言葉に、その場にいた女たちが一斉にえつ子を見た。 「あら、えっちゃんいたのかい?おとなしすぎて気がつかなかったよ」 女が悪びれる様子もなく言い放つ。  えつ子は手にしていた芋の皮をむき終わったところで包丁を置いた。 「わたし外の作業を手伝ってきますね」 皆の視線が突き刺さるのも構わず、そう言い置いて背を向ける。  うす暗い土間から外に足を踏み出すと、一瞬目がくらむほど眩しい光が顔を照らした。  空を見上げると高く日が昇っている。雲ひとつない日本晴れだった。  周囲に響き渡る金切り声に目をやると、まだ鯛が届かないのかツネが苛立った様子で下女を叱りつけていた。  えつ子はそっと母屋を離れた。  母屋の裏手には、見渡すかぎり遠く山々が連なっている。()のとどかない母屋の北側の土手をおりていくと、広く雑草が茂る草原(くさはら)が見えてくる。そこはえつ子のお気に入りの場所だった。  むせかえるような新緑のにおい。遠く小川のせせらぎが聞こえる。  今朝から少し体が熱っぽく感じていた。下腹のあたりが時々、重く痛む。  えつ子はその場にしゃがみこんだ。目を落とすとすぐ手の届くところに、蛇苺が小さな赤い実をつけていた。  よく見ると足もとには小さな黄色い花や赤い実が、ところどころに散らばるように点々としている。えつ子は手近なひとつに手を伸ばし、もいでみた。ぷっくりとした丸い果実は、表面にぷつぷつとした小さな種がいくつも集まって形を成している。  えつ子の手のひらにころんと転がったそれは、たおやかな可愛らしさがあった。 「可愛い」  いつしかえつ子は夢中になって、蛇苺の小さな実を手のひらいっぱいに摘んで母屋へ戻った。  戸口の前では、ツネがえつ子を待ち構えていた。 「この忙しい時に遊び歩いて何してるんだい、本当に役立たずだね」  えつ子は手の中の蛇苺を母に見せた。 「これを兄様とお嫁様にと思って」 それを見てツネは鬼のように目をつり上げた。 「こんな毒草拾ってきて、何考えてんだ。縁起でもない」  ツネの手のひらが飛んできて、えつ子の手を払った。あたりに赤い実が飛び散る。 「お前のような面汚し、姿を見るのもいやだよ」  ツネがえつ子の細い腕を乱暴につかみ、引きずる。草履が脱げ、地面にこすれた膝に血がにじんだ。ツネはえつ子の体を納屋に押し込むと、 「祝言が終わるまでそこにいろ!」 そう叫んで扉を閉め、外側から閂をかけた。 「母様、堪忍してください!母様!」  狭い納屋の暗がりにおびえたえつ子が懸命に呼びかける。しかしツネの言葉は冷酷だった。 「あんたに母と呼ばれる覚えはないよ。この疫病神」  足音が去る。蒸し暑い納屋の中で、えつ子は倒れ込んだ姿勢のままじっとうずくまった。すぐに汗が噴き出して、剥き出しの地面に落ちて丸い染みを作った。  手のひらを開いてみると潰れた蛇苺が二粒、赤い果汁が指を汚している。  この可愛らしい実に毒があるなんて。  えつ子は潰れたそれを指先でつまんで、口にいれてみた。  舌先に乗せてから、前歯でかむ。やわらかい感触が口の中でもそもそと散らばった。  想像していたような甘みも苦みも感じられない。えつ子はもうひとつ、口に入れて飲み込んだ。  蛇が食べるという蛇苺。およそ人間の食べ物ではない。  毒はいつごろ効いてくるんだろう。 次第に日は傾いて、狭い納屋に真の暗闇を連れてくる。  いつの間にかえつ子は気を失うように眠ってしまった。  夜半、 「えつ子、えつ子」 戸外から呼びかける声に、えつ子は目を覚ました。  囁くような小さなその声に胸がひとつ鳴る。 「兄様?」 「えつ子、やっぱりそこか」  ほっとしたような声のあと、閂を抜く音がして戸が開かれた。 「姿が見えないから探したぞ、また母さんか」  暗い納屋に入ってきた次兄の(みのる)は、えつ子を軽々と抱え起こす。  背中に触れた男の腕のたくましさに、えつ子は恥ずかしいような気後れするような心地がしてそっと顔を伏せた。そのまま手を引いて納屋から連れだそうとする實を遮る。 「母様には明日の祝言が終わるまでここにいろと言われました。勝手に出たら叱られます」  暗がりに残ろうとするえつ子の目をしっかりと見つめて、實は言った。 「安心しろ、明日からはもうそんなことは言わせない。えつ子はおれの大事な妹なのだから」  決意を秘めた眼差しに、えつ子は何も言えなくなってしまった。 「さ、戻ろう、明日は今日より忙しいぞ。えつ子も手伝ってくれ」  納屋を出たところで、實はえつ子から手を離し母屋のほうへ歩き出した。  その背に問いかける。 「あの、兄様、明日来るお嫁様はどんな方なのですか?」  實は背を向け歩きながら答える。 「さぁ、会ったことがないからわからないな」 そう呟いたあと、付け加えるように言った。 「だが気立ての良い娘ならいいな、えつ子のように」  しばらく黙ったまま歩いて母屋の前に着くと、ゆっくりと實が振り返った。 一瞬だけ暗闇で艶めいた瞳を優しく細め、 「おやすみ、えつ子」 そう言い残し、母屋へと入っていった。  どれほど時が経っただろう。動かない足をようやく前へ踏み出す。そしてふらふらと、母屋の裏手にある土手へ歩き出した。道なき草むらを裸足の足で踏んでいく。  落ちてきそうなほど、たくさんの星たちのその瞬きが、えつ子を責め立てるように震えている。  どこへ行く当てもなく歩いていると、腹の奥にわずかな痛みを感じた。構わず歩き続けていると、下腹の内側からするりと何かが抜け落ちた。内股を這う感触。着物の裾から手を入れてみると、指先に赤黒い血がかすれたようについている。思いがけない初潮の訪れは、えつ子の心をかき乱した。  せせらぎの音に誘われるように、小川へ向かった。  川のほとりにはたくさんの蛍たちが、黄緑色の光をともし飛び回っている。えつ子はつま先を水につけた。冷たい水が心地よい。足を川に踏み入れると、くるぶしにさらさらと水がまとわりついては流れていった。  小川の真ん中で、えつ子は水の中に尻をつけた。着物が濡れ、はだけて川の流れになびく。  はじめは警戒したようにえつ子を避けて飛んでいた蛍たちが、じっと小川に座り込んでいるうちに平静さを取り戻したかのように、また自由に飛び回る。顔の前を蛍たちが悠々と横切った。  いくつもの小さく美しい光が浮遊する様子を、えつ子はぼんやりと眺めた。その中のひとつが、ふと肩にとまる。まるで何かを合図するかのようにゆっくりと明滅した。  その小さな光に、えつ子はそっと指先を伸ばした。とたんに肩から離れ、飛び去ってしまう。  ゆっくりと、えつ子は小川から尻を上げた。川を出てまた草むらを歩く。  母屋のほうを振り返ると、灯りの消えた家屋が真っ黒な大きな影になって見えた。深く深く、すべてを飲みこんでしまうような黒色。  濡れた着物が内股に張り付く。歩みを止めると、途方もない静けさが頭の上から降り注いでくる。その暗闇の中、足先に実る小さな赤い蛇苺。  草の葉が風に揺れ、剥き出しの肌をくすぐる。えつ子はしゃがみこんで膝を抱えた。  そして蛇を待つ。 (了)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加