深夜スーパーの女

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 深夜のスーパーマーケットの店内を歩くのは、気持ちが落ち着く。  栩木恭太が転勤で千葉県北西部の街に住むようになって、一人暮らしも二年目をむかえる。残業を終えた金曜日の夜、アパートに帰る道すがら寄るのが、県道沿いにある「バードスーパー東葉店」だった。  午前零時の閉店時間の三十分前に駐車場に入り、財布とスマホ、マイバッグを持って入店した。客の姿は既に殆ど無く、レジに目をやると店長らしき四十代くらいの男性とベテランの女性店員、それに女子大生と思われるアルバイトの店員が立っていた。それ以外の五つのレーンは既に精算を済ませたのかランプが消えて閉鎖されている。  ひと月ほど前、そのアルバイトの店員と小さなトラブルがあった。いや、トラブルとも言えない、もっと言えば笑い話のようなエピソードなのだが。 「あの…。今、貼られた下のバーコードをスキャンしましたよね。」  値引き用のバーコードではなく通常価格の方をスキャンしたのではという意味だ。半額となった紙パックのグレープフルーツジュースを手に、しかし彼女は声にならない声で悲鳴を上げた。 (ええええええー…!)  恭太とすれば謝罪の一言をもらい、正しくスキャンしなおしてくれればそれで何の問題も無かったのだが、彼女はクレーマーに絡まれたとでも思ったのかレジの横にあるスタッフ呼び出し用のチャイムを鳴らし、 「て、店長、店長…!」 と、連呼するものだから、店中の視線が集まってしまった。  真っ青な顔をして飛んできた店長は事情を聞いて大きく息を吐き出し、恭太がクレーマーなどではないことを認識すると、ようやく頭を下げた。 「申し訳ありません。お値引きさせていただきます。」  彼女に代わってレジの取り消し操作を行い、支払いまで対応してくれた。 「いえ、気にしないで…。」  店長、というよりアルバイトの彼女にそう言ったつもりだったのだが、顔を真っ赤にして下を向いたまま、恭太と視線を合わせることはなかった。  彼女の姿を目にしたのは、それ以来となる。  週末なので夜更かしをしようと思い、缶ビール二本につまみのスナック菓子、総菜コーナーで売れ残っていたシーザーサラダと鶏のから揚げを買い物籠に入れた。それらを肴に海外サッカーの試合を見るのが、一週間仕事を頑張った自分へのささやかなご褒美のつもりだった。  ついでに明日の朝食用のパンも、と手に取ってレジへ向かう。ベテランの女性店員がちょうどバックヤードに下がるところだった。 「春香ちゃんも、そろそろ上がりな。あとは店長に任せて。」  そう声を掛けてベテラン店員が事務所へ向かう。アルバイトの彼女もレジを閉めて上がろうとしたが、店長がレジに並んでいた客と何か話をしていることに気付き、その場に留まらざるを得なくなった。その結果、恭太の向かう先は彼女が担当するレーンに限定されることになる。  もし気づかれたら、どうも、とか言って軽く頭を下げようと思っていたが、彼女は手元の商品をスキャンすることに集中していて恭太の顔は全く見なかった。その間、恭太は彼女の顔に視線を向けた。メガネの奥に切れ長の目が伏せられている。地味な雰囲気を纏っているが結構な美人だなと思った。名札を見ると「坂城」と書いてあった。  交通系のカードで支払いを済ませ、品物をバッグに詰めようとテーブルに向かう。その時、店長と客との会話が耳に入ってきた。 「私ね、今日が特別な日なので、ここに伺ったんですよ…。」  恭太が入店した時、少し前を歩いていた女性客だ。見た目は六十代前半。この時間にこの年齢の女性客が入店することに少なからず違和感を覚えたが、やがてその存在を忘れてしまっていた。だが聞こえてきた店長とのやり取りから、やはりその時の感覚は正しかったと思った。女性客は籠をレジの前に置いたまま、ほぼ一方的に話し続ける。籠の中身は大根二本とホウレン草一束。恭太は二人から目をそらし、品物をバッグに詰め終えると店を出ようと歩き出した。 「あなたは覚えてないのね。でもね…私はあなたの顔を、覚えているのよね…。」  あなたの顔を、のところで女性の声のトーンが明らかに変わったように感じた。恭太は思わず歩みを止める。レジの中の坂城春香も驚いて視線を上げたのが見えた。 「あなた店長よね。」  中松貴和子といいます…。  女性客が名乗った。下総店をよく利用していました…。その台詞を聞いた瞬間、店長の背中が硬直し言葉を失ったのが分かった。 「店長の滝川さん…よね。」 「はい…。」 「うちの主人を殺したの…あなたね…。」  そう言うや否や、中松貴和子は来ていたコートの内ポケットから栁刃包丁を取り出し、店長の滝川に向けた。   滝川の左胸に包丁を突き付けたまま、貴和子が言葉を続ける。 「主人は心臓が悪かったんです。今からちょうど一年前の今日も、いつもどおり買い物をしに来て、何の警戒もしていなかった。突然隣の若い男が叫んで、その後あなたが駆け付けた。予期せぬ出来事に焦り動揺し、そうしている間に周りに人々が集まり、あなたは主人の腕を掴み、事務室に来るようにと言った。」  私は万引きなんてしていない、あの男が言ったことは嘘だ、だから放してくれ…。 「それでもあなたは主人の腕を掴んだまま、まずは話を聞きましょうと告げた。そうしているうちに主人は息苦しさを訴え始めた。あなたはそれを演技だと思った。そして主人はその場に倒れた…。」  貴和子の夫、中松勢一のカバンやコートから盗品が発見されることはなかった。全くの濡れ衣。本当の万引き犯だったのは最初に叫んだ若い男だった。  うろ覚えの記憶から、恭太はそんな事件があったことを思い出す。男性はその後病院に搬送されたが意識が戻らぬままその日の深夜に死亡。警察は若い男の行方を追ったが、いまだ逮捕に至っていない。一年前の同日、同じバードスーパーの別の店舗で起こった事件。おそらく滝川はその後異動になり、この東葉店に移ってきたのだろう。  状況を全て理解したらしき滝川が、謝罪の言葉を述べる。 「その時は…申し訳ありませんでした。当時、あの店舗では万引きによる損失が増えていて、会社からも見つけたら断固とした対応をするように言われていたんです。その日は本社の幹部の視察日でもあった。周りのお客様の目もあった。ですからここは何としても強い態度で出なければ、と…。」  会社は遺族に謝罪はしたが責任は認めなかった。店長の対応は至極真っ当なものだった、男性の体調が急変することは予測できるものではなかった、と…。 「本当に申し訳ありません。ですが決してご主人に対して乱暴な行為はしていないんです。腕は掴みましたが、必要以上に力は入れていませんし、心臓が悪いと知っていれば…まさかあんなことになるとは…。」  包丁を突き付けられたまま滝川はやがて膝を折り、土下座をすると深々と頭を下げた。 「謝ったところで、どうなるのかしら…。」  貴和子は静かな声で囁いた。そして左足を踏み出し、床に置いた滝川の右手に靴を乗せるとそのまま踏みつけた。  滝川の悲鳴が閑散とした店内に響き渡る。 「主人はね、体調のこともあって六十歳を機に長年勤めた会社を退職したの。私たち夫婦は贅沢をしていなかったのでどうにか蓄えがあったし、これからはゆっくりとした時間を過ごせるね、たまには旅行にも行こうね、美味しいものも食べに行こうねって、そう言っていたんです。けれどあなたのせいで主人の人生はその半年後にお終いにされてしまった…。」  頭を伏せた滝川はその態勢のまま、何も言えない。 「あの日もね、私に代わって買い物に行ってくれたの。健康のためにと歩いてスーパーまで行って…息も少し切れていたかもしれない。そこであんなことに巻き込まれて。」  レジの前の台に置かれていた大根とホウレン草の入った籠を、貴和子は唐突に床に叩き落とした。春香が悲鳴を上げる。籠は隣のレジの仕切板にあたって落下し、大根が二本とも床に転がった。 「主人を殺したあなたは、こうやって別の店に異動して働いている。普通に人生が続いているのを見ると…。探したわよ、滝川店長さん…。」  貴和子がしゃがみ込んで、包丁を今度は滝川の頬に向ける。 「あの…。」  耐え切れなくなった恭太が初めて口を開く。 「お気持ちは確かに…。お気の毒だとお察しします。けれど部外者の僕が言うことじゃないですけど、店長さんは職務を忠実に果たそうとしただけだったと思うんです…。」  貴和子が恭太に視線を向ける。 「本当に悪いのは店長さんではなく、逃げた万引き犯の男です。すべての原因はその男にあるはずで、店長さんが殺したわけじゃない。ですからもう一度警察に行きましょう。そしてその男を何としても探し出して逮捕してもらう。それしか無いんじゃないでしょうか…。」  それに対して貴和子が笑いだした。奇声とも取れるような笑い方だった。 「あなた…ずいぶん甘いこと言うのね。もう一年もたつのに何の手掛かりも無いのよ。警察がいまだに真剣に捜査していると思う? はっきり言ってどうでもいいのよ、私たちのことなんか。探せなかった、仕方がない、あなたのご主人は運が悪かった、それで片づけるつもりに違いないのよ。」  そんなことは…。そう言いかけて恭太は口をつぐんだ。事件のあった店舗の最寄り駅を利用したことがある。駅の掲示板には逃げた万引き犯の似顔絵と何か手掛かりがあったら警察へ、と書いたポスターが張られていたが、それはずいぶん前に貼られたかのように煤け、埃にまみれ、行きかう人々が注視しているとはとても思えなかった。 「あなた、独身?」  貴和子は恭太に問いかけた。恭太はそうです、と答える。 「まだ若いから実感が無いかも知れないけど、あなたこれから先の人生、ずっと一人だったとしたら、どう感じるかしら。」  そんなことを言われても、とは思った。たしかに一人は気楽だ。休日前の夜中にビールを飲みながら海外サッカーの試合を観戦するのは格別だ。だからと言ってそれが一生続くとなると、それはもちろん寂しいに違いないのだが。 「私はね、この先の人生ずっと一人なの。子供のいない私たちは、これから二人の時間を過ごせると思っていた。」  そこで貴和子は恭太、滝川、春香の三人を見回して語気を強める。 「スーパーで食材を買って家に帰って…。でも作る料理は私一人のためだけ。そこにある大根やホウレン草だって、自分の空腹を満たすために調理して食べるの。そんな私の気持ち、あなた方に分かるんですか?」  分かるの? 答えてよ…!  貴和子の甲高い叫びが人のいない店内に反響する。その場にいる三人は、何も言葉を返すことが出来ない。 「私がやっている事、まあ犯罪よね。」  短い沈黙の後、貴和子は抑揚のない口調で、言った。 「刃物で脅し恫喝し店員に怪我をさせる、たまたま居合わせた客も一緒に拘束する。でも、もういいわね。あとは何をやっても同じ。どうせこの先何も無い一人きりの人生なら、私が目的を果たしたって誰も何も言えないわよね…。」  そう言うと、貴和子はレジの中にいた春香に向かって、穏やかな口調で告げた。 「押していいわよ。通報ボタン、そこにあるんでしょ。」  春香は滝川に助けを求めるような視線を送る。滝川も判断に迷っているようだったが、結局のところ、押しなさい、という意図で頷き返した。  春香がボタンに手を伸ばす。あ、と恭太は声を上げそうになった。坂城さん、それ違う、それは俺をクレーマー扱いした時の店内用の…。  ピンポンピンポンピンポン…。  どこか間の抜けた、スタッフ呼び出し用のチャイムが響き渡る。これはバックヤードの事務所にしか連絡が行かない。  その瞬間、貴和子の表情が豹変した。 「いやあああああーっ!」  振り下ろした包丁が逃げようとする滝川の左足を掠めた。ユニフォームのズボンが裂け、一瞬おいて縦に走った傷口からどす黒い血が流れだす。滝川は必死に後ずさりして更なる貴和子の攻撃をかわした。 「逃げるな。私はもう犯罪者だ。今日は主人が死んで一年。そんな特別で思い出したくもない日に、私は主人を殺したあんたを殺すんだ…。」 「やめろ…!」  恭太が貴和子に体当たりしようとした瞬間、貴和子は初老の女性とは思えない身のこなしで横に逃げ、続けて足を押さえて立ち上がろうとしていた滝川の首に包丁を突き付けて恭太の接近を阻止した。 「来たら刺すよ。」  そして、こいつを刺したら次は二つ目の目的を…。  そう言って、貴和子は恭太を指さした。 「次はあなたよ。」  なぜ俺? 恭太は訳が分からなかった。滝川を助けようとしたからか? でもなんで俺が? 「万引き犯の若い男のイラスト、あなたに似ているわね…。」  何を言っているのか、それは全くの誤解だ。俺は万引きなんてしていない。これは完全な濡れ衣だ…。 「濡れ衣だと思っているでしょう。けど私の夫は濡れ衣で命を落とした。世の中そういうことだってあるの。運が悪かったってあきらめて頂戴。」  狂っている。完全にこの女は狂っている。だが、どうすればいい。目の前に人質の店長がいて、少し刺激すればこの女は間違いなく包丁で刺す。どうすればいい、どうすればいい…。 「お客さんとアルバイトの子は放してやってくれ…。彼らは全く関係ない。自分とあんたの話だ。だから…。」  滝川が、膝を押えながら絞り出すようにそう告げる。 「格好良いこと、言うんじゃないわよ…!」  貴和子が包丁を振り下ろす。反射的に恭太が捨て身で突進しようとする。その瞬間、別の方向から悲鳴とも奇声ともつかない甲高い声が響き、次の瞬間、何かの液体が飛び散ったのが分かった。  貴和子の手から包丁が床に滑り落ちる。そして彼女も床に崩れ落ちる。目の前に転がってきた包丁を恭太は遠くへ蹴飛ばした。顔を上げると、春香が呆然とした表情でその場に立ち尽くしていた。  半分に折れた大根を両手で握りしめ、その腕は大きく震えている。貴和子は立ち上がろうとするがふらつき、頭を押さえてしゃがみ込んでしまう。  窓の外を見ると、いつの間にか警備会社の車両が回転灯を点滅させて到着していた。いつ誰が通報したのかと思ったら、バックヤードに下がったはずのベテランの女性店員が戻って来ていた。彼女が通報ボタンを押してくれていたらしい。 「救急にも連絡します。傷口を押えて、もう少しだけ我慢です。」  大した傷じゃない。大丈夫…。と、滝川は言葉を発する。 「助けてくれて、ありがとう…。」  恭太は、まだ立ち尽くしている春香に向かって言葉をかけた。 「いつも役に立たないって言われていて…。けどこんなので、役に立ったのかな…。」  春香は独り言のように呟いた。ベテランの女性店員が彼女に寄り添い、二人で近くのベンチに腰を下ろす。その間も両手を床について跪く貴和子から、うめくような慟哭が聞こえてくる。そしてそれは次第に大きくなり、やがては号泣となった。  警備会社の社員に続いて、警察の車両と救急車が到着した。負傷している滝川が最初に搬送され、貴和子は少し様子を見た後で、救急車ではなくパトカー乗せられた。その場に残った恭太、春香、そしてベテラン店員の三人が事情聴取に応じる。 「起こった出来事を、時系列で話してもらえますか?」  警官が恭太に質問を投げかける。恭太はその質問を遮るように、 「あの女性にとって今日は特別な日だったんです。でも僕たちにとってはそうではなかった。そのことは彼女を傷つけ、だから僕たちに復讐をしようと…。」  警官が怪訝な顔をする。言っている意味が分からない、真面目に答えろという表情になったので、恭太は仕切り直しとばかり話し始めた。 「すいません。最初から話します。そこのレジで店長と、先ほどの女性が…。」  飛び散った大根の破片と、血痕。そして貴和子が流した涙の跡が、店内の照明に煌々と反射し、床に光を放っている。
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