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そういえば今日はすごいことがあったんだ、と青野が刺身の盛り合わせに箸を伸ばしながら言った。お互いの仕事終わりに合流して居酒屋に入ってから、二時間ほど経っていた。
「タコばかりとるな。タコばかり」
わたしの指摘を気にする様子もなく、正面に座った男はぶつ切りになった蛸の足を口に放り込んで咀嚼する。癖毛の下で、いつも通りの関心無さげな視線がわたしに向けられる。
「中瀬だって真鯛ばっか食べたろ」
「何それ。責めてるわけ」
「責めてない。事実確認」
「ふうん。自分は真鯛の代弁者ってわけだ」
「鯛の立場でモノを考えたことはねえよ」
「二十年は生きるつもりだったのにー。美味しく召し上がりやがってー、みたいな」
「美味かったんなら大往生かもな」
「ほらほら。またタコ食べてる」
「中瀬も食べればいいだろ。タコを」
「わかってない」
「何が」
「その言い方じゃ、わたしがタコを食べたいから青野にケチつけてるみたいでしょ」
「違うのか」
「わたしがそこまで自己中心的な女だとでも」
「違うのか」
「うそ。すごいショック。かつての同級生にそういう目で見られてるとか。心が痛いっ」
「こぼれるから。ビールジョッキを持ったまま胸を押さえるなって」
「青野とタコのためを思って言ってるのに。傷ついた。ズタズタだよ。ぶつ切りだよ」
「大参事だな」
「傷ついたから、ビールのおかわり頼んでいいですか、青野先生」
「酔ってるな、お前」
お前は酔ってないな、と頭の中で返事をする。この男はどうすれば酔うのだろうかとビールジョッキを傾けながらチラリと思う。顔色はいつもと変わらない。言葉は平坦。飲むペースも、食べるペースも変化がない。
店員を呼び止めて注文している青野の横顔を眺める。焦点がぶれるのは酔っているせいだろうか。
そうして、学生時代のことを思い出す。夕焼けの差し込む練習室で一心にチェロに向き合う男子学生の背中を。
青野の後姿を。
今でもあの時の確信を思い出すことができる。習い事の延長で進んだ地元の音楽科。早々に音を上げたわたしは当然として、他の学生達と比べても、青野は一線を画す存在だった。少なくとも高校生であった自分にはそう見えた。特に有名な奏者が生まれているわけでもない学校だったけれど、きっと青野がその先駆けになるだろうと思っていた。
大学を卒業して、営業先の素材メーカーの研究所の事務室で彼に会うまでは。
「青野はさ」
わたしは訊いた。ぼんやりとした視線を向けたまま。自分が何を言おうとしているかもよくわからないうちに、勝手に唇だけが動いている。
「今の仕事どう思ってる」
どう思うも何も、と青野は空になった皿を脇に寄せながら応じる。
「仕事は仕事だろうよ」
「答えになってない」
「食べて、生きていくために、給料に見合った責任感で働く行為だと思ってる」
「そんなのさあ」
どの仕事でも同じでしょ、と反射のように言いかけて、やめた。
青野とは偶然の再会以来こうして飲みに来る仲を続けている。音大を中退して、今の会社に就職したというのは後になって別の友人伝いに聞いた。理由は知らない。知ったからといって何かが変わるわけでもない。目の前の青野が職業音楽家になるわけじゃない。
すごいことってなに、と話を振ったのは店を出て駅へ向かう道中だった。
青野が、なにが、と短く応じる。深々と冷え込む夜の町を並んで歩いていた。まだまだ宵の続く気配に揺蕩う店々の灯りがアスファルトに光を伸ばしている。
あまりに素っ気ない様子に口を尖らせる。
「さっき言ってたでしょ。『今日すごいことがあった』って」
ああ、と青野が呟く声に、決して彼も忘れていたわけでないことが察せられた。要するにこの話題は機を逸しているのだろう。先ほどの話の流れか、場の雰囲気があってこそ話すようなことだったのだ。
酔った頭の中でそこまで整理して、だからどうした、と整理したものを脇へ追いやった。アルコールが、なけなしの自制や配慮を麻痺させている。
「なになに。すごいことって。ねえ」
「別に」
「聞きたい」
「大した話じゃないって」
「聞きたい」
「だから」
「聞きたいっ」
「……何、意地になってるんだ」
「意地。うん。意地だ。意地でも聞き出す。聞くまで帰らない」
何で、という疑問が、青野に再開してから今に至るまで、衝動的にわたしの口から何度となく飛び出そうとしたか、青野は知るまい。それを抑えて、飲み込んで、知らないふりをしてやり過ごしてきたわたしを青野は知らない。知るはずがない。
そんな思いがわたしを意固地にさせる。青野を困らせてやりたくなる。
不意に青野が足を止めた。瞳の奥の色がすっと沈んでいったように見えた。視線の先を追って、振り返った。
小さな楽器店だった。既に店じまいした入口に、クローズドの表示がぶら下がっている。ただ、その陳列窓に飾られた飴色のチェロが、眩いほどのスポットライトを浴びて佇んでいた。
あ、と息が漏れるような自分の声と、青野の静かな声が重なった。
「今日はさ、事務所に誰も遅刻してこなかったんだ」
青野がチェロを見つめていた。
「出入りの清掃会社がやった給湯室の掃除も見落としがなくて、パートさん達からもクレームがつかなった」
声が淡々と夜の町に落ちていく。
「稟議書の決裁印は漏れがなかったし、会議資料も『これでいい』の一言だったし、請求書の伝票も記入ミスがなかったし、本部の担当者は電話一発でつかまったし、研究棟の警報機は一度も鳴らなくて、所長も副所長も定時で帰った」
どこか遠くで酔客の笑い声が聞こえる。
「俺が帰る頃には、事務所は誰もいなくて、守衛に『いつもお疲れさん』て声かけられた。トラブルらしいトラブル無し。スケジュールのズレも無し」
そうして小さく息を吸い込んで、ふうっと吐いた。白い息が夜に溶けていく。
「そういう一日だったんだ」
すごいだろ、と彼は口元を緩めた。
高校生の青野の横顔を思い出そうとしていた。課題授業で組んだカルテットで隣り合った彼が真剣に楽譜を見つめる様子を。コンクールで入賞したときの拳を握る姿を。わたしにとっての特別な毎日を。
目の前の青野を。青野の、すごい、を、否定するために。
そう思うほどに鼻の奥がツンと痛んだ。
「……何だ、泣いてんのか」
青野が困ったように笑って言った。
ぶんぶんと音が鳴りそうなほど首を振って応じる。己の残酷さと身勝手さを追い払うように。誤魔化すように、明るい声を出そうとして声が震える。
「そんなの、普通でしょ」
「なかなか無いんだよ。いつも問題だらけだから」
「おおげさ」
「言わせたのお前だろ」
「わたしが自己中心的な女みたいじゃん」
「違うのか」
「違う、と言えなくもないことも、ない……」
今度こそ、泣いた。
自分勝手だ。とても自己中心的な感傷だ。押し付けがましい、無思慮な。青野のことなんか無視した、自分のための涙だ。
ハンカチを取り出そうとして、寒さにかじかんだ手で滑り落してしまう。
青野がしゃがんでハンカチを拾い上げる。中瀬が泣く必要なんかないのにな、と彼にしてはいくらか優し気な声が耳に届く。ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、差し出されたハンカチを受け取る。
「……酔ってるから」
顔を上げられなかった。
そうか、と言葉が落ちてくる。顔を上げる。夜道に漏れる灯りが、青野の顔に複雑な陰影をつけていた。
「俺も、酔ってるのかもな」
視線を追う。チェロを見つめている。
懐かしさの滲む声だった。
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