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口から吐いた白が、空に溶けていくのをぼんやりと見つめながら歩く。
鼻の頭はすでにじんじんとした痛みを発している。鏡で見れば赤くなっていることだろう。
幸い、その間抜け面は自分では見ることができないが。
アマドイは、ふうと大きく息をついた。
吐き出された白も比例して大きくなり、それはゆっくりと、外気の中に溶け込んでいく。
(寒い)
当たり前のことを思った。それから、
(早く帰りたい)
ぼんやりと、家の中を思った。
おそらくテレビでかけてやったアニメを見ながら、ぼうっと自分を待っている『彼』のことを。
アマドイ(雨樋 怜央。二十五歳、独身)は、いわゆる何でも屋だ。
ただし客は『妖怪』やら『かみさま』やら、『魑魅魍魎』の類ばかり。
ニンゲン相手には商売をしないために、収入はあがったりさがったりで、うだつの上がらない毎日だ。
それでも時たまに支払われる古銭に価値があったり、古い壺なんかがとんでもないお宝だったりして、それでアマドイは生計を立てていた。
(今日は家回りの雪かきだったな)
山奥に住む天狗の爺さんこと『ゲンさん』は腰が悪い。
茅葺屋根に積もった雪を降ろすことはおろか、家の前の雪も跳ね上げられないというので、アマドイが駆り出された。
支払いという名目で貰った野菜類(ニンゲンの真似をして雪の下に寝かせていたらしい)の入った紙袋を揺らす。
また頼むぞ、と言われてバンバン叩かれた背中は、たぶん真っ赤になっていることだろう。
彼らはアマドイが『ただの視えるニンゲンである』ということを忘れがちなのだ。
(明日はひとまず何も予定が入ってないから、この野菜は煮込んでシチューにでも……)
ふと、視界の端っこに子連れの女性が見えた。
おのずと目で追いかけていると、子供の頭にはスーパーの特設コーナーにこの時期よく置かれている『鬼の面(紙で作られた簡易的なものだ)』が掲げられていた。
(ああ、今日は『節分』か)
──どうりで、寒いわけだ。
アマドイはどこか懐かしいような気持ちになって、ふっと口元を緩ませた。
もちろん、マフラーの中でのことだ。こうすれば、一人で笑っていても誰も気づくまい。
ざくざくと真新しい雪を踏みつける足は、無意識のうちに速度を速めていた。
雪の日。節分。子供。鬼の面。
たった四つの要素で、いとも容易く、家の中でアマドイを待っているであろう『彼』が思い浮かぶ。
(──早く会いたい)
(早く、早く)
(一秒でも、早く)
いくつかあの電柱と、明るくなり始めた街路灯を越えて、顔をあげた先。
『あの日』と同じように、今はもう廃業してしまった駄菓子屋のシャッターの端っこから、見覚えのあるフードがひらひらと揺れる。
「カヤ!」
アマドイは、慌てて走り出していた。
それから『彼』の華奢な体をぐいと抱き上げると、彼は驚いた顔で振り返った。
「うわっ、れおか。びっくりした」
「びっくりしたのはこっちの方だよ。どうしてまた、こんなところに」
フード越しに頭に積もった雪を手で払って、アマドイはぎゅうと彼の身体を抱きしめた。
冷たい。……あの日には負けるが。
「へへ。たまには、迎えに行こうと思ったんだけどさ。考えてみたら俺、あんたの職場なんて知らなかった」
自分の腰ほどしかない、ニンゲンの子供くらいの身体をわずかに震わせながら、彼、カヤはにたりと笑う。
フードの隙間からは、ちらちらと小さな角が見え隠れしていた。
もちろん、名の通りの茅色の耳も真っ赤になっている。
「……ありがとう」
「どういたしまして。ま、結局このへんまでしか来れなかったけどな」
得意げに笑うカヤをみていたら、なんだか胸が満たされて、寒いというのに胸の真ん中がじんわり熱くなるのを感じた。
とはいえ、それは気分的なものだ。
カヤの体はずいぶんと冷たい。どれだけ長い時間、ここで待っていたのだろう。
「すごい雪だ。積もるかな?」
当のカヤは、のんきなものだった。
アマドイの腕の中にすっぽりとおさまって、長い袖の腕を空にかざしている。
(そこも、『あの日』とは違う)
今でも鮮明に思い出せる。
ボロボロで、疲弊していて、今にも死んでしまいそうだったカヤのことを。
ニンゲンに対する警戒が凄まじくて、それでも、生きるためにアマドイから温もりを奪い取ろうとしていたことを。
「れお?」
カヤの声にはっとする。
小さな手が、ぺちぺちと頬を叩いていた。
「ぼーっとしてるな。疲れたのか?」
「うん、まあ、力仕事だったからね」
「俺がもっと大きくなったら、あんたの仕事手伝ってやるからな!」
「ふふ、期待しているね」
こちらを覗き込む琥珀色の瞳を、ひどく愛おしく感じた。
この子が大きくなったなら、もう、こうして抱えて歩くこともないのだろうか。
「そういえば、こっちは明日から大寒波だってさ」
「だいかんぱ?」
「たくさん雪が降って、寒くなるよってこと。……年末に大雪だったばかりなんだから、少しは自嘲してほしいよね」
「いいじゃん。たくさん積もったら庭にカマクラ作ろうぜ。そんでさ、中で鍋食べるんだ。ニンゲンってそういうことするんだろ」
「今度は何のアニメみたんだい、君」
カヤにつられて空をみる。
空は灰色、どんよりと重苦しい。ハラハラと舞う白は、とめどなく降ってくるように思う。
……雪国育ち、雪国生まれとしては。こんな雪は、心底遠慮したいものなのだけど。
不思議とアマドイの胸に去来したのは、煩わしさだけではなかった。
カマクラをつくって、鍋を食べる。
そんなある種、ファンタジックなことがあってもいいか、と思った。
「今夜はグラタンにしようか」
「ぐらたん! 俺の大好物だ!」
「うん。頑張ってお迎えにきてくれたお礼だよ」
腕の中ではしゃぐ小さな命を抱えなおして、アマドイはその背をぽんぽんとさすった。
「へへ」
ぐいぐいとアマドイの胸に顔を擦り付けて、カヤは笑った。
しんしと降り積もり雪に、『あの日』聞こえた子供の賑やかな声は響かない。
そんな、とある春が立つ日。
──子鬼、カヤとの生活は、今日で三百六十五日目になろうとしていた。
***
カヤと出会ったのは、ちょうど一年ほど前のことだ。
大雪で家の前の除雪を終えたあと、冷蔵庫の中身が空っぽだという事実に気付いて泣く泣く買い出しに出た昼下がりのこと。
閉店してしばらく経つ、駄菓子屋のシャッターの前に、カヤはいた。
ぼろぼろのコートを羽織って、シャッターに背を預けてぐったりとしていたカヤを、アマドイは連れ帰った。
カヤの身体にあった傷は、どれも見覚えのあるものだった。
いわゆる、豆の痕だ。
(……節分、だからか)
ニンゲンより身体が丈夫な彼らだが、豆にだけは弱い。
それこそ三、四階ほどの建物から飛び降りても怪我ひとつしないが、豆はぶつけられただけで痣になる。
それこそ強くぶつけられれば血も出るだろうし、骨も折れるかもしれない。
とはいえ、通常、鬼をはじめとする妖怪たちはニンゲンの目にはふれない。
アマドイは別だが、彼らはこの痛々しい身体を見ることはないのだ。
(あぁ、だから、節分は嫌いだ)
ニンゲンにもよいわるいがいるように、鬼にだってそういう区別がある。
だというのにあの行事は、見境なく、全ての「鬼」を拒絶するから。
「なー、できた?」
「もうちょっとだよー」
帰宅してすぐに一緒に風呂に入ったために、ほかほかになったカヤはアマドイの腰辺りに抱きついていた。
いけないいけない、とアマドイは思考を元に戻す。
「ぐらたんにチーズたくさんのっけていいか?」
「いいよ、今日は特別」
「やった!」
きゃっきゃと笑うカヤの頭を、アマドイは優しく撫で付けた。
……本当に、救えてよかったと思う。
もし少しなにか違えば、この命を取りこぼしていたかもしれないと思うと、ゾッとする。
「よし、チーズのせるぞー」
「おう!」
ホワイトソースを皿にもりつけて、冷蔵庫からピザ用のチーズを一袋、取り出す。
袋の口をハサミで切ってからカヤに手渡すと、カヤはその小さな手いっぱいにチーズを握りしめては、ホワイトソースの上にふりかけていた。
「レオのも俺がやる!」
自分の分を終えると、カヤはそういってアマドイの皿にもチーズをふりかけた。
もうこれでもかというくらい、チーズがのっている。
対照的に、チーズがたくさん入っていた袋は、空っぽになってしまった。
「あっ」
それに気付いたのは、ふりかけおわってからのことである。
少し気まずそうにカヤはアマドイを振り返ったが、アマドイは「今日は特別っていったでしょ」と微笑み返す。
それから皿を二つオーブンに突っ込んで、ダイヤルを回した。
「焼けるまで見ててもいい?」
「いいけど……おもしろいの、それ」
「うん!」
カヤは本当に焼き上がるまで、グラタンを見つめていた。
その間に洗い物をしていたアマドイの背に、トンッと衝撃がきたのは、チン!とダイヤルが元に戻る音が鳴る少し前のことだった。
「カヤ?」
「どうして今日、特別なの?」
ぎゅっと腰に巻きつく腕に力が込められる。
「どうしてだと思う?」
「……俺が言いつけを破って、勝手に外に出たから……お、俺を、追い出す、とか?」
アマドイは思わず吹き出していた。
確かにカヤには、外は危ないから勝手に出歩かないでほしいとお願いしている。
今までそれを破ったのは、出会ってまもない頃に一度と、喧嘩した時に一度だけだし、今日、どうしてわざわざ『迎えにきたのか』は、わかっているつもりだ。
「追い出すわけないでしょ。ここは、もう君と私の家だよ。それに私を迎えにきてくれた君を、私が怒れるわけない。凄く嬉しかったよ」
「……じゃあ、なんで?」
おずおずと顔をあげたカヤの頭を撫でながら、アマドイは笑って言った。
「今日君が私を迎えに来た理由が、答えだと思うんだけど」
「……バレてたのか」
「ほんとは尚更家にいて欲しかったけどね。いつ豆が飛んでくるかわかったもんじゃないし」
カヤは、恐らく昨年のことを思い出したのだろう。
豆まきで家から追い出され、あちこち逃げ回って、あそこにたどり着いた『あの日』を。
アマドイがふとした拍子に思い出してしまうように、カヤもまた、そうだったに違いない。
「ごめん」
「だからいいってば。それよりもね、カヤ」
アマドイは、カヤの華奢な身体を抱き上げた。
「今日は私と君とが出会って家族になった、特別な日でしょう」
琥珀色の瞳が、ぱちぱちと瞬いて、それから輝いた。
さっきまでの不安な色は、もうそこに混ざってはいない。
「! ……かぞく……家族! うん、うん!」
「さあ、冷めないうちにグラタン食べようか。焼き上がってることだしね」
「うん!」
アマドイの腕から、カヤがぴょーんと跳び跳ねた。
ふふ、と笑みをこぼしながら、アマドイはオーブンの扉をゆっくりと開ける。
わっと香るチーズのよい香ばしい匂いに、二人は顔を見合わせた。
窓の外はしんしんと雪が降り続けていたので、明日の朝は昨年のようにひたすら雪かきする羽目になり、腰を痛めたりするのだが──それはまた別のお話。
グラタンを二つ並べて席についた二人は、両手をあわせて、声を揃える。
「「いただきます!」」
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