オトノ怪

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 しんと静まり返った山の中で、それは湿った地面に横たわっていた。   「俺は、なんてことをしてしまったんだ」    一人の青年がそれの傍らで涙を流し、膝から崩れ落ちている。   「カナデ、許して」   最期の力を振り絞り、それは小さくそう言うと、静かに息を引き取った。  その昔、オトノ()という化け物が住む山があった。オトノ怪は巨大なウサギの化け物で、人間の声を欲しがり、一度その前で声を発すれば、たちどころに声を奪われてしまう、恐ろしい化け物である。  そんな言い伝えがある山奥の小さな村に、一人の少年が暮らしていた。名前をカナデという。今年で十になるカナデは、立派な猟師の息子でありながら、引っ込み思案で身体も小さい気弱な少年だった。  村の子供たちはそんなカナデを見て情けがないと嗤い、時には石や小枝を投げつけたりしていじめていた。彼はいつも独りぼっちだった。誰とも打ち解けることが出来ず、自分の力ではどうにもできぬまま、徐々に孤立していった。  彼の声が出なくなってしまったのはそんな最中だった。彼の両親はひどく心配し、周囲の子供らはますますカナデに対し陰湿ないじめをするようになった。 「あいつの声を出させた奴が勝ちな!」  そう言ってカナデにちょっかいをかける者もいた。 「やめてほしいなら『やめろ』って言ってみろよ」 「言えないだろ弱虫!」  彼をいたぶる子供らは無邪気そのものだった。カナデもこれにはひどく心を痛め、家の中に隠れているか、誰もいない山の中へ行って独りで遊ぶよりなかった。  まだまだ夏の暑さが残る9月の半ば。カナデは蒔きや木の実を取りに家の裏手にある藪山へと入った。セミの声は未だ衰えず、数歩歩いただけで額に汗がにじむようなじっとりした暑さの中、村の人間から逃れるように足を進めた。  ここ、どこだ……?    暫く歩いていると、見覚えのない道が姿を現した。道を間違えたのかと思い、焦って引き返そうとすると、奇妙なことに気が付いた。  セミや野鳥の声が一切きこえないのだ。あたりは気味が悪いほどの静寂に包まれている。ただ聞こえるのは、自分の呼吸する音だけだった。  ガサッ  背後で急に音がして、カナデは反射的に振り返った。真っ黒な獣がそこにはいた。伸びた爪、赤い目、長い耳、上下する鼻。ウサギだ。熊ほどあろうかという巨大なウサギが、草影からぬっと顔を出し、カナデの方を見ていた。  カナデの頭の中に、以前祖母から聞いたオトノ怪の言い伝えが浮かんだ。黒い毛に赤い目をした大きな化け物。人間の声を欲しがり、ひとたびその前で言葉を発すれば、たちどころに声を奪われてしまうという……  実際、この言い伝えを信じている者は少なかった。最期に被害に遭った人間が出たのは、ずっとずっと昔のことだったからだ。カナデもオトノ怪の話に怯えはしたが、完全には信じきっていなかった。しかし、今目の前にいるそれは、明らかに化け物の風体を成していた。 「声をよこせ。よこせ」  化け物が言った。何人もの人の声が入り混じったような、奇妙な声だった。その声に釣られるように、カナデの喉に力が入った。思わず何かを喋りそうになる。  しかし、何も言葉は出てこなかった。 「なんだお前。声を持たないか。つまらない。つまらない。せっかく久しぶりにこの山へ戻ってきたのに」  オトノ怪はそう言ってカナデの方へ近寄ってくると、大きな鼻をヒクヒクと上下させてカナデのにおいを嗅いだ。不思議と恐怖はなかった。この化け物は自分には悪さをしない。カナデは直感でそう思った。 「お戻り。お前に用はない」  オトノ怪はどこか柔らかさを含んだ声でそう囁くと、また茂みの中へと跳ねて行ってしまった。  次の日も、カナデは山に入った。忘れられなかったのだ。オトノ怪の不思議な魅力に取りつかれたかのように、山へ入っては真っ黒な化け物の姿を探した。探している間は孤独を忘れることができた。  オトノ怪を見つけ出してはその後を付いてまわるようになった。ついにはオトノ怪の方も観念したのか、カナデの頭を毛繕いしてやったり、背中に乗せて野山を駆け回ったりするようになった。そうしているうちに絆は深まり、いつしか毎日のように顔を合わせるようになっていた。彼らの間に言葉は必要なかった。ただ一緒に走り、木の実を食べ、昼寝をし、となりで過ごすだけで良かったのだ。  しかし、そんな毎日にも終わりがやって来た。  カナデがあんまりひとりで山へばかり行くので、心配した両親が村の子供やその親に頼み込んで一緒に遊ぶよう仕向けたのだ。カナデは、自分がいじめられていることを両親に打ち明けたことは一度もなかった。その為、ただの引っ込み思案としか思われていなかったのだろう。彼は山へ行くことを禁じられ、村の子供らはカナデをいじめる絶好の機会だと言わんばかりに彼の家へ押し掛けて、皆が集まる広場まで連れていった。 「やめてほしかったら何か言ってみろよ」 「猟師の息子の癖に臆病で情けないやつだな」  村の子供らはカナデをからかい続けた。しかし彼には言い返す術がない。他に止めてくれる者もいない。悔しい思いを胸に閉じ込めたまま、拳をぎゅっと握りしめて耐えるしかなかった。  ガサッ  すると背後で草を踏む音がした。その場にいた全員が、音のした方へと目を向ける。  そこにいたのはオトノ怪だった。つり上がった赤い目をぎらぎらさせて、今にも飛びかかって来そうな化け物の姿がそこにはあった。 「声をよこせ。よこせ……」  全員の背筋が凍りついた。カナデの時とはうって変わり、この世のものとは思えぬほどの恐ろしい声だった。  いけない。声を出しちゃ駄目だ!  カナデは心の中で叫んだ。しかし、誰にも伝わらない。他の子供たちは何かに操られるかのように夢中で言葉を喋った。命乞いをする子供もいれば、罵声を飛ばす子供もいた。怖くて泣き声をあげる子供もいれば、父や母を呼ぶ子供もいた。  やがて、あたりはしんと静まり返った。すべてを吸い付くしたかのような、何とも暗く悲しい静寂だった。オトノ怪によって、その場にいた子供全員の声が奪われてしまったのだ。 「二度と喋れないようにしてやった。当然の報いだ。お前を罵る奴に、二度と喋る資格などない」  オトノ怪はそう言ったが、カナデは悲しくて悲しくてたまらなかった。涙が後から後から頬を伝い、自分ではどうにもできなかった。他の子供らは声が出なくなった現実を受け止めきれないのか、呆然と立ち尽くしたまま動かない。  なんてことをしてしまったんだ……  カナデが泣きながら心の中でそう言うと、オトノ怪は何かを察したのか、静かに山の中へと帰っていった。そしてそれきり、姿を現さなかった。  それから6年の月日が経ち、カナデは猟師になっていた。いじめがなくなってから約2年、ようやく声も出せるようになり、自分に対する自信も少しずつだが付き始め、不自由のない生活を送っていた。  悲劇は、カナデが山で熊を狩ろうとしていた時に起こった。仲間ともはぐれてしまい、熊に目をつけられてしまったカナデは、山の中をひとりさ迷い歩いていた。日も傾き始め、辺りもうっすらと暗くなり始めたころ、カナデは岩の影に熊の姿を見付けた。静かに忍び寄り、熊に狙いを定めて銃の引き金を引く。ドーン!という大きな音が静かな山々にこだました。岩の影で、どさりと獣が倒れる。 「当たった!」  カナデは岩の影に駆け寄った。しかし、そこに倒れていたのは熊ではなかった。 「お前は、オトノ怪……」  血を流し倒れていたのはかつて姿を眩ませたオトノ怪だった。 「カナデ、許して」  オトノ怪はただ一言そう言うと、悲しげな赤い目を見開いたまま動かなくなった。 「そんな……俺は、なんてことをしてしまったんだ」  熱い涙が頬を伝った。随分と久しぶりの涙だった。静寂の中、カナデはまだ熱い銃を持ったまま、呆然と立ち尽くすよりなかった。  それからほどなくして、声を取られた村人たちは、無事に自分の声を取り戻した。奪われた声を取り戻す唯一の方法は、オトノ怪を殺すことだったのだろう。カナデは村人たちから感謝されたが、ちっとも嬉しくなどなかった。 「カナデ、許して」  その言葉をだけは、彼の頭の中に響いたまま、ずっと消えないのだった。  
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