独り立ち

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 「朝ごはん、ここに置いておくからねー。」  母は扉の向こう側にいる息子に声をかけ、トーストとコーヒーをその場に置いた。  息子が部屋から出てこなくなり、もう五年以上が経っていた。外出はおろか母や父と会話をすることもなく、トイレや風呂に入るそのタイミングを除けば、家族ですらその姿を捉えることが出来ない。  外は雲一つない冬晴れの空が広がっている。年齢だけで言えば、この息子は今日の成人式に参加をする予定であった。無論、家族の誰もがそんなことを期待はしていなかったのだが。  食事を運び終えた母は、いつも通り返事のない息子の部屋の前から立ち去ろうとしたその時、大きな音と共に扉が開いた。  「たくみ、あんた・・・」  なんと、息子が部屋から出てきたのである。普段から家の中ですら誰にも会わないように心掛けている息子が、わざわざ食事が運ばれてきたこのタイミングで扉を開けたというのはまず有り得ないことであった。そして、そんな息子の格好が、さらに母を驚かせた。  「それ、お父さんのでしょ?いつの間に持って行ったのよ。」  久しく目を合わせていなかった息子は、上下スーツに身を包んでいた。部屋から出てない生活によって丸みを帯びた体には、典型的な中年太りである父の服がピッタリであった。  まさか息子は成人式に行くつもりなのだろうか。  真偽を確かめようとしたその時、息子が口を開く。  「・・・やってくれたな。」  「え?」  荒らげることはなく、それでも確かな怒りが込められた息子の声に、母は困惑していると、息子はポケットに入れていた右手を握ったまま胸の前に突き出し、母に見せつけるように拳を開いた。  「なんだよ、これ。」  手のひらには、小さな錠剤のようなものがあった。  「俺は小さい頃からやけに体だけは強くて、医者に行ったこともなければ薬も飲んだことがないはずだ。だがこの前、夕飯のカレーの中からこの錠剤が見つかった。そこからというもの、あんたの作る飯を注意深く探ると、これと同じ錠剤が何個も見つかった・・・あんた、一体俺に何を飲ませていたんだよ。」  ただ黙って俯いている母を紛糾するように、息子は怒りの視線を送る。母が行っている謎の行動に対する興味は、およそ何年もまともに会話をしていないはずの息子の口すらも流暢に動かした。  「・・・まさかこの薬、俺を部屋から出す成分でも入っているのか?」  皮肉のつもりで発した息子の言葉に、一瞬母の表情が固まる。その変化を久し振りに人と対面し感度が高まっている息子は見逃さなかった。  「本当にそうなのか、そんな薬が存在する・・・」  「逆よ。」  息子の言葉を遮った母は、何か覚悟を決めたかのように顔を上げて、息子の目を見つめた。  「その薬は引きこもりを部屋から出すようなものじゃない。寧ろ逆で、万人を引きこもりにしてしまう薬よ。」  その母の告白に、息子は動揺を隠し切れない。  自分が言ったこととはいえ、引きこもりを解消する薬も、ましてや人を引きこもりにする薬などあるはずがない。そんなのが薬一つで決められるはずがない・・・そんな思考が駆け巡り、頭を抱える息子をよそに、母は続ける。  「思い出して。あなたは小学校時代、明るくて運動も出来てクラスの中心だったはず。それが、中学に入るにつれて暗くなって行き、学校へ向かう足取りが重くなり、最終的に部屋から出れなくなった・・・そこになにか理由はあった?」  息子はふと思い出す。確かに小学校時代の快活な自分から、中学に入り明るさを失って部屋に引きこもりに至るまで、明確な原因というものはなかったように思える。いじめられた訳でも、何か挫折を味わった訳でもない。気が付いたら学校へ行く足取りが重くなり、人と話すことが億劫になって部屋に引きこもっていた。  まさか、これらは全て薬のせい・・・?  信じられないと思いつつ、妙に納得してしまうこの話を、息子は次へ進めた。  「百歩譲って話が本当で、俺が薬のせいで引きこもりになったのだとして、あんたはなぜそんな薬を俺に与える?息子が引きこもりになるなんて、あんたに何の利益もないだろ。」  その問いかけに対して、母は不気味な笑みで応える。  「あなたは何もわかっていない・・・私は小学校でクラスの中心となっているあなたを見て危機感を覚えたの。華のある人間になってしまったあなたは、やたらと友達同士であちこち行きたがるようになり、どこの馬の骨かもわからない女と付き合って家族と疎遠になり、高校卒業と同時に希望に目を輝かせて一人暮らしをしたいと切り出すに決まっている・・・そんなの許せなかった!」  今度の母は怒りに顔を歪ませ地団駄を踏む。次から次へと表情が一変する母の姿は、自然とその場に緊張感を生み出す。  「私の目が黒いうちにあなたが心から出ていくなって絶対に許せない。どうにか阻止する手段はないか・・・そう考えてあらゆる手を尽くした結果、その薬に出会ったの。」  感情を吐き出し、表情を失った母はゆっくりと息子の手の中にある薬を指差した。  「あなたをこの家から出さないためには、あなたを物理的に部屋に閉じ込めてしまえばいい。そしてその薬を使えば、それが実現出来る。」  「ふざけるなよっ!」  聞き役が続いていた息子は、母の呪縛を振りほどくように大きな声で叫ぶ。  「あんたのそのふざけた考えのせいで、俺の青春はめちゃくちゃになった・・・でも、それも今日で終わりだ。」  そう言い切ると、息子はゆっくりと歩き出す。そして母の横を取り過ぎる時、自らにも言い聞かせるように呟く。  「・・・俺は成人式に行く。」  そうしてさらに数歩進もうとする息子だったが、突如として膝から力が抜ける。その姿を見て、母はあの不気味な笑みを再び浮かべる。  「本当に行けるの?あなたはドーピングの産物とは言え、間違いなく引きこもりなのよ?小学校時代に有名人になってしまったが故に地元の人たちはみんなあなたが引きこもりになったことを知っている。今のあなたの姿へ注がれる視線に、果たして耐えられるかしら?」  息子の気持ちが揺らぐ。確かに母の言う通り、今更成人式に行った所で何になるというのだ。小学校時代の知り合いはみな俺を腫れ物に触るような扱いをして、水ぼらしくなった自分の姿で酒でも飲むかもしれない。人と話さなくなって免疫も体力もない自分が、その仕打ちに耐えられるだろうか。  「あなたはもう、ずっと家にいる定めたなの。さあ、部屋に戻りなさい。私がずーっとあなたの面倒を見てあげるから、何も心配することはないのよ・・・」  狂気が生み出す優しい声に飲み込まれそうになった瞬間、息子は歯を食いしばった。    ここで、ここで負けてたまるか!  「ああああああああああああ!」  自らを鼓舞するように大声をあげ、足に力を送り込む。  「俺は、俺は昔負けず嫌いだったんだ・・・運動も勉強も、一番になりたくて努力した。その結果、みんなが俺を受け入れてくれたんだ。だから今からでも俺が頑張れば、きっと受け入れてくれる人だっているはず・・・薬なんかに負けられねえ・・・今日、俺は変わるんだっ!」  右手を錠剤を投げ捨、立ち上がると同時に息子は走り出し、勢いそのまま玄関を飛び出していった。  「・・・もう大丈夫そうだし、今から女優でも目指そうかしら。」  母は息子が投げ捨てた新ビオフェルミンS錠を拾い、瓶の中にしまった。        
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