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 食器用洗剤が切れていたことに気付いたのは、給湯器のスイッチを入れ、蛇口から流れる水がお湯に変わったのを確かめ、スポンジを手に取り握り締めたまさにその時だった。  今日はとにかく、一から十まで間が悪い。社会の一部はプレミアムフライデーだなんだと浮かれているけれど、そんなものが適用される会社なんて、俺の知る限りではそう多くはない。大体、月末の金曜日なんて十五時に仕事を切り上げられるどころか、下手をすると定時に帰れるかどうかすら危うい。朝一番でプレミアムフライデーなので十四時までに対応お願いします、なんて内容のメールが数件届いているのを見て肩を落としてしまった身としては、考え付いたのがどこのお偉いさんなのかは知らないが、文句のひとつもつけたくなってしまう。  こんなの、どう考えたっていい日になる訳がない。それは朝から分かっていた。その心構えさえあれば、多少の不幸なんてどうということもない。それでも、比較的時間に余裕を持って乗り込んだ朝の通勤電車は当たり前のように遅延するし、金曜の午後直前に無理な納期をねじ込んできたクライアントには悪くもないのに頭を下げる羽目になり、昼飯を食いっぱぐれていたら十五時なんてとっくのとうに過ぎていた。仕方なしに、先週上司が出張した時にもらった土産の菓子を二つほど腹に収めて背伸びをしたところで、ちょうど私用のスマホの画面が光った。村上雅樹、とある。  俺が五歳の時からお隣に住んでいた幼馴染で、今は高校の教師をしている。せっかくの金曜だから飲みに行こう、というお誘いだった。  金がないからと断れば、お兄さんが奢ってやる、と言う。それはつまり、金曜日なのに相手がいなくて寂しいから金を出してでも飲みに行きたい、ということなんだろう。そういうことならと了承すると、現金な奴めと笑われたが、それはお互い様だろう。  その時、確かに食器用洗剤のことは思い出したのだ。帰りにコンビニ寄らないといけない、と。それなのに散々飲んで、実際コンビニに立ち寄って買ったものはと言えば、自宅で一人で飲みなおす為の缶の酒が数本とおつまみ、それから明日の朝食用にと買った調理パン、そろそろ無くなるなあ、と思い出した市の指定のゴミ袋、そして何故買おうと思ったのかも分からない、季節限定の高いチョコレートがひと箱。  久しぶりにふらふらするまで飲んだのだから仕方がない。大体、酔っ払って帰宅したのに、流しに溜まった食器を洗おうと思ったところがまず偉い。どうせまた明日外出はするのだからと諦めて、コンビニで買ったものは袋ごと冷蔵庫に放り込んだ。  ばたん、と扉の閉じる音がする。ぶぉん、と不満を訴えるように冷蔵庫が唸り声を上げる。全身にアルコールが行き渡った身体で、まともに働こうとしない頭で、それらをどこか他人事のように捉えていた。 「ほんまに、ごめんな」  コンビニを出てから雅樹はこちらも見ずにそう言った。  それだけは絶対に言ってくれるな、と最初にお願いしておくべきだったと、今になって思う。たとえそれが本心だろうがなんだろうが、その場を取り繕うための口先だけの言い訳だろうが、そんなことはどっちだって構わない。けれど、いずれにしても、謝って欲しかった訳じゃないんだ、と先に伝えておくべきだった。  ダメならダメで良かった。振るならあっさり振って欲しかった。絶対に有り得ない、お前だけは考えられない、気持ちが悪い、顔も見たくない。それが率直な感想だと言うなら、それで良かった。社会人になってすぐに引っ越しの費用を貯めていたのは、そうなったときいつでもあの家を離れられるようにする為だ。  聞きたかったのは俺の気持ちを慮った優しい謝罪じゃなく、目の前に立つ八歳年上の幼馴染の本音だったのに。  謝られたら自分の所為にはできない。自分が悪かったんじゃない、と自分に言い訳をしてしまう。ダメなのは自分じゃないから、まだ可能性があるんじゃないかと勘違いをしてしまう。だから、告白に対する謝罪は、世界で一番残酷で無用の配慮だと思う。  黙り込み、立ち止まった俺をまっすぐ見て、雅樹はもう一度ごめんな、と言った。関西弁ならではの独特のイントネーションで。眼鏡のレンズの向こうの目は明らかに困っていて、だとしたら謝るべきなのは雅樹を困らせている俺であるはずなのに。困らせてごめん、とか、変なこと言ってごめん、とか。  けれど、それも言えなかった。弱気で面倒臭くて空気の読めない俺は、謝るくらいならまた奢ってよ、なんて笑って、もう謝るなよと肩を小突いて、そうして二人でアパートの階段を上り、向かい合ったそれぞれの部屋へ帰ったのだ。  十年前なら良かったのかもしれない。謝られても泣いて黙り込んで、いっそもう恋なんてしない、と言えるくらい純粋だったなら。本音を言えば、雅樹が俺を怒らせるくらいに最低な人間ならよかったのに、と思うけれどそれはいくらなんでも責任転嫁が過ぎるから、いっそ思う様俺だけが傷ついたふりをして泣き喚いて、ヤケ食いをしてヤケ酒をして、明日の朝には胃の中の物と一緒に全部吐き出して水に流せるくらい、俺がまっすぐな人間ならよかった。ずっと雅樹が好きだったのに、と取り繕えないくらい程取り乱すような純粋さがあったなら。  自業自得だろ、と冷蔵庫に吐き出す。それは独り言というより、冷静な自分から未だに言い訳を考える俺への説教みたいだった。  雅樹はもうベッドに入っただろうか、と考える。あの人はいつも酔って帰ると、風呂も入らず着替えもせずに眠ってしまう人だから。  風邪を引かなければいいけれど、と考えてしまう俺は、やっぱり卑怯で狡い人間だ。
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