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雲が波打つようにうねっている。ナミナミ雲とも呼ばれる波状雲だ。低気圧や前線が近づいてくる時に見られることが多く、この雲が現れた後には、雨や雪が降るという。
―冷え込んできたし、雪になるんかも……―
片桐美優は黒く輝くアーモンド型の目を会社の窓の外にやって思った。きめの細かい白い肌、キュッとつまんだような小さな鼻が、彼女を二十九歳という実際の年齢よりも幼く見せた。
オンライン教育を司る中堅企業で7年働いている美優にとって、机とパソコンが並んでいる会社の風景は見慣れたものだ。動画配信を使った教育、オンラインセミナーや講座の開催を行っているため、来客も頻繁で会議室との距離も近い。美優は主にオンラインセミナーや講座の開催に携わっているが、毎日新しくなり続ける業界にいることは、美優にとって好奇心が満たされるものでもあった。
美優が、視線を社内に向けると正午を少し過ぎていた。昼休みだ。
美優は持参したお弁当を出して、暖房の効いたロビーに移動した。水筒に入れて来た玄米茶を飲んでいると、相良亮太の嬉しそうな声が響いた。
「早紀ちゃん、お昼どうする? 俺の車、出すし、一緒に飯を食いに行かへんか?」
その声に反応して、後輩の月影早紀も顔を上げた。
「亮太先輩、私も行ってもいいですか?」
「もちろん、大歓迎やで」
亮太の嬉しそうな声が響いたが、美優は亮太の方を見ないようにした。相良亮太は三十二歳、少しグレーがかった形のいい大きな目をしている。鼻筋もとおっていて、彫りの深い顔立ちだ。流行にも敏感で、髪も流行りのスタイルにしている。自分が美男子であることが武器になることを知っていて、女性の扱いにも慣れている。
その亮太でさえ目じりを下げる早紀は昨年入社した二十三歳の新入社員で、評判の美人だ。透き通るような白い肌をしていて、巨峰のような大きな黒い目、形のいい鼻をしていた。淡いピンク色の唇が話すことばが少しゆっくりなのと同様に、行動もおっとりしていた。
「おい、早紀ちゃんを独り占めなんてずるいやんけ!」
「早紀ちゃん一人を連れ出すわけとちゃいますよ」
「早紀ちゃん、気ぃつけや! 誘惑されたらあかんで」
「課長、それはないでしょ。そんなことしませんよ……」
亮太は近頃、早紀に熱中していた。食事だ、飲み会だ、と言っては連れ出し、退社するときは愛車で送った。
美優は聞こえないフリをして、箸を進めたが、砂を噛んでいるように味がしなかった。
美優は、早紀が入社するまで、亮太と親しくしていたのだ……。付き合っているわけではなかったが、一緒に食事や飲み会に行ったり、遊びに行ったりもしていたのは、美優のほうだったのに。
美優がお弁当を食べていると、女性社員の声が聞こえてくる。
「亮太さんのお父さん、大学教授なんやって」
「知ってる知ってる。幼稚園からずっとあの星雲大学附属やったんやろ」
「エリートやなあ。それやのになんでうちみたいな中小企業に入社しはったんやろな」
「さあ? 勉強より女の子を口説くのに忙しかったんとちがう」
と言って女子社員は笑った。
女子社員たちの噂どおり、亮太の父は、著名な大学教授で、母はエッセイスト、亮太はインテリ家庭で育ったのだ。ミッション系の一貫校星雲学園で教育を受けたが、亮太いわく「賢い人ばかりの中で、勉強について行くのが大変やった」「どんなに頑張っても中の上の成績しかとれへんかった」そうなのだ。
結局、亮太は勉強や仕事より、自分の見かけの良さで勝負して、可愛い女の子を連れていることで、自分の優位性を示そうとしているのだろう。
美優は、そんな亮太とは正反対の環境で育ってきた。小中高と公立、大学は美優の成績でも入れる私大を選んで、奨学金をもらいアルバイトを掛け持ちして大学を卒業した。実践力もやる気もある美優は仕事でも評価され、亮太とは正反対だ。
最後に二人で出かけた時、亮太は美優に言った。
「俺みたいな男に美優はもったいないねん」
「私、そんなふうに言われたないわ……」
「美優といてると、しんどいねん」
亮太は美優といると、自分の軽薄さや無能さを感じると言う。美優もまた亮太といると、華のない地味な自分が責められているように感じた。美優は不美人ではなかったが、連れ歩いていて自慢できるタイプではない。
美優は、ロビーの窓から空をみた。青空が広がっていたが、ナミナミ雲の幅が太めになり、さっきよりも少し低い所に移っていた。ナミナミ雲、つまり、波状雲の幅が広くなると、雪や雨が降る時間が迫っていることを表しているのだ。
―雪なんやろうか? 今日は私の三十歳の誕生日やっていうのにー
誕生日とは言っても、世間体を気にする両親は、娘が独身で三十歳の誕生日を迎えることを手放しで喜べないようだった。誕生日を祝ってくれる友だちも、美優にはもういないのだ。
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