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私の朝は早い。とはいっても、結婚して侯爵夫人になったところで私に特別な仕事などない。別に虐げられているというわけではなく、アイザックさまはもともと社交に力を入れていないらしい。もちろん「青髭」のような恐ろしい振る舞いをすることもなく、私は白い結婚のままぬくぬくと甘やかされていた。
今日も、嫁いだ私のためにあつらえてもらった温室で植物を愛でている。立派な設備のおかげで、冬だとは思えないほどに色とりどりの花が育っていた。だからもしも突然ぽっくり逝ったとしても、たくさんの花を棺に納めてもらうことができるだろう。それだけで私は死ぬのが気にならなくなった。
ひとりでこの花を楽しんでいるのはもったいないので、この間までお世話になっていた花売りのお姉さんたちに花を分けることにしている。時期外れ、かつ質の良い花ということで売り上げにもかなり貢献できているらしい。
倒れた私に手をさしのべてくれた彼女たちに、少しでも恩を返したい。だが、具体的にどうすれば彼女たちの境遇を改善できるのか。お金を渡すことは簡単だが、私が死ねば援助は止まる。それでは自立に繋がらない。ついつい考え込んでいると、アイザックさまに声をかけられた。
「おはよう、シャロン。ここにいたのか。今日も花の妖精のようだね」
「アイザックさま、おはようございます」
軽口をたたくアイザックさまだが、やはりその瞳は静かなもの。なぜだろうか、アイザックさまに見つめられると、周囲からも音が消えてしまうような気がする。まるで神殿の中でお祈りをしているかのよう。アイザックさまの隣にいれば、蓮の花が咲く音さえ聞くことができるかもしれない。
「シャロン、愛しているよ」
「ふふふ、ありがとうございます」
花売りをしていたお陰で、恋する人々を間近で観察することができた。もちろんその想いが報われたひともいれば、あえなく砕け散ったひともいるだろう。けれど花を持ち、大切な相手の元へ向かう人々の目には夜空に浮かぶきらめく星のような輝きが、あるいはその身を焦がすような燃え盛る熱が見え隠れしていた。
アイザックさまにはそれがない。今思えば、元婚約者にもそんなものは存在しなかった。それなのに、アイザックさまに大切にされると、私も愛の言葉を返したくなってしまう。本当に愛されているのだと信じたくなってしまうのだ。だから、決して愛しているとは言わないと決めている。
「何か困っていることはないかな」
「ええと、そうですね、実はご相談がありまして……。ただ、少し、いえかなりお金がかかることなのですが……」
「ドレスかな。それともアクセサリーかな。欲しいものがあるなら、なんでも買ってあげよう」
「友人である花売り娘たちの境遇改善なんですが、それは侯爵さまの働きかけでなんとかなるものなのでしょうか」
「……何を言い出すかと思えば。なるほど、善処しよう」
アイザックさまが立ち去ると、周囲に音が戻ってくる。本当に不思議なひとだ。
どうしてアイザックさまが私のような人間をこの家に迎え入れたのか、私にはわからない。けれど聞いたところで彼はきっと答えてくれないだろう。それにもうすぐ死ぬ私がそれを知ったところで何ができるというのか。だから今日も黙って微笑むのだ。
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