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もちろん逃げ出したところで行くあてもない私だが、運良く下働きの仕事を見つけることができた。貧しい女性のために、神殿が手配したものらしい。悪魔に呪われた私が神殿のお世話になるなんて申し訳ない気がしたが、他にどうしようもなかった。
しばらくして、私は熱を出した。このところ影を潜めていた呪いが活性化したのかもしれない。やむなく仕事を休み、誰もいない部屋の中で体の節々が握り潰されるような痛みをこらえていると、誰かがベッドの脇に立つのがわかった。
女性たちの面倒を見てくれている神官さんだろうか。部屋の壁が思ったよりも薄くて、うめき声が響いていたのかもしれない。
私の体を蝕んでいる呪いは他人に移るものではないが、馬鹿正直に呪いのことを話せばたいていのひとが眉をひそめるだろうし、悪い病気だと思われれば様々な憶測を呼ぶだろう。追い出されてはたまらない。気力を振り絞って必死で体を起こそうとしていると、ゆっくりと抱き起こされた。
こちらの神官さんはかなりお年を召された方だったはずだ。私に肩を貸すことすら難しく、抱き抱えるなど論外だ。ならばこのひとは一体誰なのか。おもむろに相手の顔を確かめた私は絶句した。なぜならそこにいたのは、アイザックさまだったのだから。
「あの、離婚届に何か不備がありましたか?」
「いいや。なんの漏れもない完璧な書類だったよ」
「それでは一体どうして。お屋敷の中から大切なものが失くなったりしていましたか?」
「まったく君ときたら。むしろ金目のものをしっかり持っていってくれたら、ここまで心配しなくて済んだというのに。ああ、これ以上無理に話をしないで」
自分としては流暢に話せたと認識していたのだが、息も絶え絶えの返答だったらしい。
アイザックさまは嘆かわしいと言わんばかりに首を振り、そのまま私を抱き上げた。
「な、何を」
「屋敷に戻る」
「そんな、私はすでに離婚した身ですよ」
「君は詰めが甘い。本当に離婚をしたいのなら、自分で離婚届を提出するべきだったんだ。離婚届は、まだわたしの手元にある。君は今もわたしの妻で間違いないよ」
「そんな」
なんとか抜けだそうと腕の中でもがいたせいか、ガウンの前が思いきりはだける。見映えのしない体とはいえ、誰にも見せたことのない肌をあらわにするのは恥ずかしい。それがたとえ法律上の夫の前だとしても。
ところがアイザックさまは、慌てるどころか笑みすらたたえている。
「良かった。呪いは解けてきているようだね」
「え?」
もう少しで満開になりかけていた薔薇の花は、時を戻したように蕾となっていた上、その色を淡いものへと変化させていた。
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