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 待ち合わせ場所には、目抜き通りから一本入った人目につきにくいカフェを選んだ。孝明が店に入ると、彩夏はすでに奥の席でコーヒーを飲んでいた。 「待った?」と、孝明はにこやかに言った。彩夏は「ううん」と嬉しそうに応えた。 「じゃ、行こうか」  二人は連れ立って店を出た。 「ねえ、会社の近くでしょ? 平気?」 「土曜の夜八時だよ」と、孝明は苦笑した。オフィス街の裏通りは、平日の喧騒が嘘のようにひっそりとしていた。 「映画の招待券が当たったって本当?」 「本当だよ。ただどんな映画かは俺も知らないんだけどね」 「ふーん、ところで私でよかったの? 奥さんじゃなくて……」と、彩夏はいたずらっぽく小首を傾げた。 「彩夏と来たかったんだ」  孝明はわざとぶっきらぼうな調子で答えた。大切な方と……、と言われたのだから本来なら妻の佳世と来るべきなのだろう。しかし、孝明は迷わなかった。頭の中には、くるくると表情を変えくすりと可愛く笑う彩夏の顔が大写しになったのだ。たまには趣向を変えたデートもいいだろうと孝明は一人頬を緩めた。 「ここかな?」  古ぼけたビルの正面で二人は足を止めた。『シアターK』と書かれたすすけた看板があるので間違いはない。だが、孝明は建物に入るのを一瞬とまどった。この一角だけがぼんやりと取り残されたように霞んで見えて、少し気味が悪かったからだ。彩夏もぎゅっと孝明の腕を掴んだ。不意に、音もなく扉が開いて、スーツを着た黒縁眼鏡の男が現れた。 「今日はお越しいただきありがとうございます」   孝明は少し緊張した面持ちで、「ミステリーナイトを観に来たんですが……」と招待券を見せた。支配人と書かれた名札をつけた男は、孝明の差し出した招待券の半券を丁寧にちぎり、「こちらへどうぞ」と二人を中へ招き入れた。  案内された上映室は、空調がよく効いていてひんやりとしていた。座席は五十席あるかないかの狭い劇場で、他の客は誰もいなかった。 「私達だけですか?」 「はい、今夜はお二方だけです。どこでも好きな所にお座りください。では、ごゆっくり」  男は上背のある体を深く折り曲げ一礼した。孝明は落ち着かない気分のまま、彩夏の腰に手を回すと、「とりあえず座ろう」と彼女を促し中央の座席に並んで腰を下ろした。 「どんな物語なのかしら?」  彩夏が孝明の耳に頬を寄せ囁いた。と同時に、開演を知らせるブザーが鳴り、上映室の照明が落とされた。  映画が始まって三十分も経たないうちに、彼女はバッグを荒々しく掴むといらだった様子で席を立った。 「私帰る! 何これ。知ってたんでしょ?」  序盤から感じ始めていた居心地の悪さが頂点に達していたのは孝明も同じだった。だが先に動いたのは彩夏だった。 「ちょっと待って! 俺も何でこんな映画が……」  彩夏は最後まで聞かずに冷たい視線を孝明に突き刺すと、くるりと背を向け足早に上映室から出て行った。  孝明は少しの間呆然としていたが、はっと我に返って彩夏の後を追った。扉を開けて外に飛び出すと、駅へ続く暗い裏道を走った。しかし、既に彩夏の姿はどこにもなかった。何度も携帯に電話をかけたが、呼び出し音は虚しく鳴り続けるばかりだった。孝明は祈るような気持ちでメッセージを残した。支配人にどういうことか問いただそうとすぐに映画館に戻ったが、彼は煙のように消えていた。    孝明は仕方なくとぼとぼと自宅マンションに帰った。時刻は夜十時をまわっていたが、リビングルームの電気はついていた。そーっとドアを開けると、ソファーに座って本を読んでいる佳世の姿が目に入った。 「ただいま」  佳世はチラッと孝明の顔を横目で見た。 「あら、早かったのね。今日は遅くなるんじゃなかったの?」 「予定が変わっったんだ」 「そう」と佳世はページをめくりながら言った。 「疲れたからもう寝るよ」 「おやすみなさい」 「おやすみ」   孝明は踵を返した。よほど面白い小説なのだろう。背後で佳世のくぐもった笑い声がした。  自室に入ると、孝明は着替えもせずにベッドに腰を落とした。携帯をチェックしたが彩夏からの連絡はない。考えれば考えるほど訳が分からなくなった。  「なんだったんだ。あの映画は……」     ただ一つだけはっきりしたことがある。彩夏との関係は今日で終わった。孝明は頭をかきむしりながらベッドに突っ伏した。                    
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