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「ありません」
ジルは即答した。
実際、考えるまでもない。
生家の者たちは下々にいたるまで残らずジルの素性を知っていて、近づくことなく冷たく無視するか、遠巻きに悪意を露わにくすくす嗤うばかりだった。
さすがのカティアでも、あんな環境では決して恋などできなかったに違いないと思う。
だからジルは、誰かに恋したことはない。
恋したいと思ったこともない。
願うのは、この修道院でひっそりと誰からも忘れられて過ごすことだけだった。
「ねえジル、今日は誓願の日よ? よく考えて。本っ当にただの一度も、誰にも恋したことはないの? 恋を夢見たことはないの?」
カティアは珍しくくどい。
足を止めてじっとジルを見つめ、なおも言ってくる。
「生身の人間とは限らないわ。いにしえの詩人、異国の学者、流行の楽士。そうした人たちが残した言葉や本や旋律に恋することだってできるのよ。あなたの胸を打った人はいない? 打たれたいと夢見たことはない? そうしたらどんなにか人生が豊かになるだろう、って」
ジルも仕方なく足を止め。かすかにため息をついた。
(姫さまの教養は、やはり下心あってのものだったのですね……)
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