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「あ、ここです、着きました」
アパートの前に車を停める。通りに似つかわしくない真っ黒の車が街頭に照らされてピカピカ光ってる。
車を降りてアパートの入り口に視線を向けると、いつもは明かるい、郵便受けがある共用スペースが暗い。何となく暗闇にじっと目を凝らしていると、そこに誰かがいるような気がして急に怖くなった。
「もも」
カイさんが私の目の前に回り込み、視界が高級スーツでいっぱいになった。ほのかに森の香りがする。カイさんは背を丸め、私の耳元に唇を寄せた。別な意味で心臓が跳ねる。
「…今日はどこか違うところに泊まれ。家がバレてる」
私の耳元でそう囁くカイさんの言葉に、私はぞっと怖気が走った。やっぱり、誰かいるんだ。カイさんも気が付いたんだ。
怖くなって俯いていると、カイさんが頭を撫でた。
「どこか泊まれるような場所はあるか?」
「い、いいえ、近くに友人の家はないし、これから行くのもちょっと…」
「じゃあどこかホテルに泊った方がいい」
「そんな」
そんなお金ない。
学生の身分で急にホテルに宿泊なんて、仕送りなく一人で暮らしてる私にそんな余裕はない。
「俺が用意してやるから」
「え、駄目です、私自分で何とか…」
「何とか出来てないだろ」
「でも…」
「今は選択肢がない。後で考えよう」
カイさんはそう言うとまた助手席のドアを開けて私を乗せようとした。その時すぐ近くで、知らない声が私たちにかけられた。
「ももちゃん、お帰り」
その声に大きく肩が跳ねる。カイさんの後ろを見ると、いつの間にかあの人がそこに立っていた。手に、大きな花束を持って。
「遅いから心配したよ」
「……っ」
言葉が出ない。怖い。
その人はニコニコと、まるで本当に私の知り合いのように…私の彼のように、そこに立って困った顔で笑っていた。
「君の好きなデリバリーもあるんだ。ほら…ね、少し冷めたけど温め直せば大丈夫。早く一緒に食べよう」
一歩、私に近付くその姿に恐怖しか湧かない。
「おい」
カイさんが私の前に立ち塞がり、その人から私の姿を隠した。聞いたことのない低い、怒気を含む声音でその人を威圧する。
「誰だお前」
「…ももちゃんとお付き合いしている者です。彼女を送って下さり、ありがとうございました」
「お前とは付き合っていないだろ」
カイさんは私を背中に隠してその人を威圧する。姿は見えないけど、その人はそれほど気にしていない様子だ。私は思わず、目の前の広い背中にそっと掴まる。
「…あなたは、ジムの会員さんですよね? 大人気ないですよ、いい歳して」
その笑いを含んだ蔑むような台詞に、カイさんの背中がピクリと揺れた。
「何も分かってないのはそっちだ」
カイさんは鼻で笑うと、くるりと私に振り返った。見上げると、柔らかく笑んだ表情でカイさんが私を見下ろしている。
「もも、おいで」
その甘く切ない声。初めて聞いた柔らかな声。
大きな手が私の腰に回され引き寄せられた。頬を刺す冷めたい風はウールのコートに包まれ遮断される。抱き寄せられた腕の中はほんのりと香る森の匂い、私の知らない男の人の香り。
大きな手が私の頭を撫でて、冷えて震える唇に柔らかな唇が押し当てられ、喰まれて、ちゅっと音を立てて離れた。
私の頬に、耳朶に、唇を寄せて慰めるようにキスをする。
自分の耳がみるみる熱を持っていくのが分かる。耳元でクスリと笑われた気がした。
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