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大学を出て向かう先は、保護猫カフェ。
毎週水曜日は、客としてカフェに行く。
大学から駅までの道中に佇む保護猫カフェは、夕方から夜のあいだのみ開店する特殊な店だ。本来、夜行性であるはずの猫を昼間に働かせるのは如何なものかと判断した経営者の意向を反映させたと聞かされている。
新旧と美醜も玉石混合の建物が集う繁華街に白亜の壁が程良く映える店の前に着く。黄昏時の雨を一手に引き受けたビニール傘から、水滴を振り落とす。閉ざした傘を傘立てに置く。雨が止む気配は、未だない。
スタンド看板のブラックボードには、白いチョークで『Nuit』とフランス語で夜を指す言葉が綴られている。傍らのプランターには、従業員が相談して置くことを決めた季節の花・クリスマスローズが雨露に濡れて艶やかに並ぶ。水も滴る良い花を横目に、猫の彫刻が為された真っ白な扉を開けて入室した。
外観・内観ともに白を基調としたフレンチシャビーシック。格式高いフランスアンティーク調の家具で統一された店内は、老若問わず女性に人気でSNSの映えスポットとしても店名を轟かせる良き特徴と化している。
「いらっしゃい、棗さん」
華やかなプラチナブロンドの髪を有するツーブロックの美男は、今週も爽快な笑みで私を出迎えてくれた。おそらく髪を染めて金髪にしている。黒髪から自然な色合いの金にするためには、髪が傷む覚悟でブリーチなる工程を挟むらしい。私は、金髪にしたいのに勇気が湧かず、黒髪のまま地味なおさげで妥協した女だ。それゆえ彼の髪色が憧憬に映る。
水曜日だけシフトを入れる27歳の個人事業主・月下香さんは、私とメリーさんの恩人であり気になる人だ。恋情ではない興味があって、深く話し込んでみたい欲求に駆られていた。
第一に月下さんは、既婚者なのだ。恋情など抱えていいはずがない。今日も変わらず美しい顔を眺める延長線で、私は、彼の左耳にあったはずのカップル人気が高いペアピアスの片割れが見当たらないことに気づく。無くしてしまったのだろうか?
「今日も閉店まで居る予定かな?」
「そのつもりです」
「メリーさんは、相変わらず元気だよ」
「よしっ、めいっぱい遊んであげられる体調ですね」
「新しい玩具も増えたから、試しに使ってみるといいよ」
「早速試してみますね」
月下さんにオススメされた玩具――ネズミのけりぐるみを手にして、猫たちが寛ぐ交流スペースへと足を踏み入れる。レイリー散乱でグリーンに映る瞳がチャームポイントなロシアンブルーのメリーさんは、私が来たのを見るなり徐に歩み寄ってきた。喉を撫で上げると、心地良さげにごろごろと喉を鳴らしてくれたので私も気分が良い。
けりぐるみを差し出すと、気に入ってくれたのか抱きかかえる体勢で延々と蹴り続けている。この満足げな姿を閉店まで見届けられるのは至福でしかない。
保護猫カフェの使用料は、30分でも600〜800円ほどかかる。正直言って、大学生には割高で、気軽に立ち寄るのも難しく、閉店まで居座ることも現実的には困難を極めることだ。
20歳の大学2年生で一人暮らしな私の大学生活は、実家の親が大学費を全額負担する代わりに家賃や生活費を私が稼ぐことで成り立つ。ここで働いて稼いだバイト代の殆どが家賃と生活費で吹っ飛ぶのだから、毎週このカフェに貢げるお金なんて私の手元には残らない。
しかし地獄の沙汰も金次第なこの世にも救済があった。なんと、この保護猫カフェは、従業員割引があるにも関わらず、私だけ利用料金が発生しないのだ。経営者の社長とやらの手厚い配慮で。といっても、特別扱いされるのは、どこか申し訳ないのであまりに店が多忙なら休日に客として訪問しても自主的に手伝う。
メリーさんがけりぐるみ蹴りを中断した。背を壁に預けながら座る私を物欲しそうな上目遣いで見つめてくる姿は、おやつが欲しいと思っていそうだ。猫用のアイスキャンディーを月下さんから貰って舐めさせようと試みたら、メリーさんは、私の手元へと、まっしぐらに飛びついて来る。
こんな可愛い猫との縁に恵まれた私は、幸せ者だ。
物思いに耽る私は、ぼうっとメリーさんを眺め続けた。この子には、幸福と感じながらも心配に満ちた私の心境を知る由もない。その事実にありがたみを感じてしまう。私がこの子を可哀想だと思う感情が伝わらずに済む。
メリーさんにとっての『Nuit』が自分を不幸だと思わぬまま過ごせる居場所であれば嬉しい。それは、人の傲慢さに過ぎず、猫視点だと人の手など要らないのかもしれないけれど。
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