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「――棗さん」私の体には触れず、声だけかける。
「……はい」心地好い微睡みのなか、渋々、瞼を開く。
「あっ、起きた? おはよう」安堵して気が抜けた微笑。
「おはよう、ございます……?」当惑しきった声音。
目覚めた私の視界には、こちらの顔を覗き込む月下さんだけが映り込む。私が横たわるのは、猫に添い寝してもらえる仮眠スペースの絨毯だった。ブランケットまでかけられている。
自身の腰の横に置いた右手の先で柔らかなふわっとした体毛がもぞもぞ動く。「にゃう」とひと鳴きされて「メリーさんだ!」と思わず弾んだ声が出た。少々、気恥ずかしい。月下さんは、私の様子を見て微笑ましげだ。
時間帯の把握がてら窓を見やる。夜の帳が落ちた雪景色を収めた窓枠が、額縁の中に閉じ込められた風景画みたいだ。従業員以外立ち入り禁止のバックヤードから不定期に鳴る物音は、夜勤で猫の世話や事務を行う人によるものだろう。
メリーさん以外の猫は、裏で休息をとっているのか姿が見えない。私、メリーさん、月下さんしかいない物珍しい空間に、閉店後? と首を傾げた。そういえば、私の体が交流スペースから仮眠スペースになぜか移動している。
「もう閉店時間を過ぎているよ」
「あの、私、なんで仮眠スペースにいるんですか?」
「交流スペースで寝落ちていたから、俺が仮眠スペースまで運んであげたんだ」
「えっ、月下さんが?」
「あそこの床は、寝たら体が痛くなりそうだったし、第一に寝る場所じゃないから。起こすのも悪いと思って運んだけど、余計なお世話かな」
「いえ、ありがとうございます」
意図せず寝転んだまま話してしまった。
流石に失礼すぎると感じて起き上がる。
「家は、この近く?」
「徒歩で帰れる範囲ですね、急いで帰ります」
店仕舞いの22時を過ぎているなら、閉店後の片付け等も手伝おうかと思ったが、肝心の月下さんが客として来訪した私に仕事を任せる性格ではない。寧ろ早く帰るよう促すのを予期して立ち上がると鞄が置いてある荷物置き場に行くべく一歩踏みだす。
途端に斜め後ろから強い握力で片腕を掴まれる。私は、ぎょっとした。月下さんの想定外な行動に背筋が凍りつく。男の人の手は、こんなにも硬く力強いのか。当の月下さんにそのまま沈黙されて面食らう。
「……つ、月下さん」
「――ごめんね」
月下さんの手から力が緩く抜けて解放される。
「物寂しくて、つい、君を引き止めてしまった」
何事かと戸惑うが、そう言う彼の声音に男性特有の覇気や下心を覚えず、安心できる要素と捉えた上で振り向いてみる。あの月下さんが悲哀に染まりきった面持ちで俯くものだから興味深く感じられて、彼の耳元から拾い上げた違和を元にした考察が私の口を衝いて出てしまう。
「離婚でもしました?」
「したよ」即答されるのは意外だった。
「したんだ……」
思いがけない返答に拍子抜けしてしまい、申し訳ない心地だ。月下さんは、結婚指輪を仕事中だけ外す。しかし元妻と夫婦になる前の恋人関係にあった頃から身に付ける習慣があると思しきカップル用のペアピアスだけは毎日装着していた。それが失われた耳元だけで彼の負の変化を見抜くなんて、私の勘も捨てたものじゃない。
「急に独りになったのが寂しいってことですよね?」
「俺のことは気にせず早く帰りな」
「それなら、私ができる限りの範囲で慰めますよ」
吐き捨てるような月下さんの言葉を無視して告げる。
我ながら身勝手な善意だ。
「君に何ができるんだよ」
存外いつもの彼から想像し難い非愛な語調だった。
「貴方が離婚した妻あるいは他の誰かと過ごした楽しい時間の再現。共にやってみたかったことを実行。そういう、貴方と過ごしてみたい私にしかできない慰め方ならできるでしょう?」
「君は、俺に興味があるのか?」やっと顔を上げてくれた。
「はい。貴方に興味を持つ人がお話相手なら、多少は心安らぐかと思って」
「確かに、そうだけどさ」
月下さんは、長考したのち腑に落ちない様子ながらも得心する。私の発言は、女性が言うには無防備な印象もあるが、彼の反応がその要素を拾い上げ悪意のまま利用する人らしくない。ふたりで行動しても問題ないと判断し、彼の手を取りながら優しく語りかけた。
「――ほら、大切な人と何がしたかったんですか?」
その問いかけに月下さんが答えた後で、意味深な含みもなく文字通り一晩を共に明かすことにした私と月下さんは、閉店後に行う業務を協力して片付ける。全ての事が済んだのち、裏で働く後続の人の許へとメリーさんを預けた。
店から出る手前で私と同様に従業員の着用必須な店名ロゴ入りエプロンを外した月下さんが一際煌めいて映る視界に、制服ありきな高校までの学生時代を幻視した。
学校でしか会わない同校の人と街中で鉢合わせて私服姿の見慣れなさにギャップを感じてまごつくなんて青春なのに、人生を魅力的にさせる出来事とは、案外テンプレートに沿って組み込まれるらしい。大人になっても類似現象が起きるほどには。
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