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まさか、24時間営業のスーパーで即席麺を大量に買い込む月下さんを真隣で拝むなど夢にも見なかった。職場の厨房で率先して働く料理好きな月下さんが調理を面倒くさがるほど気落ちした事実が目の前にある。
「俺の奢りだから好きに買って」と促された私は、キャンディ茶葉の甘やかな芳香と味わいに富んだペットボトルのミルクティーだけカゴに突っ込む。「それだけ?」と問われはしたが、「食べながら話すのが苦手なので」と返せば無理強いされず済んだ。家族以外とスーパーに来るのは、初めてだった。
成り行きで月下さんの自宅へとお邪魔することに。
都心で厳かに屹立する高層マンションの敷地を踏むのも初だ。富貴を兼備した人達の住処は、庶民の私にとってまばゆい。そこで私は、隠された真実に一歩近づけた気がした。
彼こそが『Nuit』の経営者で社長の座に就く人物だろう。ここは、ただの個人事業主が住める物件ではない。こんなに稼いでいるなら猫カフェの労働で手にする給料など無価値も良いところだ。彼があの店で働くに値する尤もな理由は、経営店の視察しかない。
自身が社長だと表沙汰にしないのも、店員の態度が自分の前でだけ急変すると視察に不都合だからではないか。そこで脳裏をよぎるのが、去年に押印したアルバイトの契約書に記載されていた社長の苗字と名前だ。苗字は、『水咲』で名前が『香』と綴られていた記憶。
「水咲って、離婚した方の苗字ですか?」
LEDライトの内灯による白光に照らされた通路を歩きながら問えば、月下さんは、振り返らずに歩を進めながらさらりと受け答えた。ゆとりと威厳ある語調から、これが本来の彼だと悟る。
「勘がいいね、元妻が苗字に愛着を持っていたから俺の姓名も水咲だったよ」
立ち止まった月下さんが扉の鍵を開ける。
どうやら、彼の自宅に着いたようだ。
月下さんの後に続いて入室した。
内装は、適当に月下さんが集めた家具を配置していそうに映る。それでもリビングに黒革のアームソファーがあるのはお金持ち特有の内装センスを感じ取れた。
滅多に過ごさない空間で、かえって落ち着けない私に反し、月下さんは、電気を点けたのち私と向かい合いながら平然と構えて腰掛けていた。ペットボトルの蓋を開けた私は、ひとくちだけミルクティーを飲む。多少なりとも緊張が和らげばと思っての行動だった。
彼が座るソファーの側面には、溢れんばかりに即席麺をぶち込んだレジ袋が凭れかかる。彼は、ガラステーブルの上に無糖アイスコーヒー入りのペットボトルを置く。ブラックでも美味しくいただけるなんてクールだ。
「それじゃあ、早速始める? 大切な人ごっこ」
「はい! 始めましょう!」
私達は、互いのスマートフォンを同時に取り出す。人気MORPG――『Cat Collector』をアプリ画面でタップして起動すると、本日のログイン報酬である猫缶が獲得できた。このゲームは、世界中の猫を集め、その生態観察や研究に没頭するのが生き甲斐な主人公による冒険物語。
月下さんが読み上げたユーザーIDを打ち込み、フレンド申請の送信を行う。フレンドとなった直後に月下さんのゲーム内アバターからマルチプレイの誘いが飛んできたので承諾した。
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