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Balloon Whale
私は空飛ぶ鯨。遊泳鯨。子供の夢の中にだけに出てくる夢のような白い鯨。
私は毎日ふたりの女の子の暮らしの上を飽きもせず回遊している。ふたりの女の子の暮らしは慎ましくそして穏やかで進化もせず衰退もせず、揺り籠で赤子の上を回っているベッドメリーのよう。
大きな白い翼を背中から生やした女の子はよく私の近くまで飛んでくる。それより更に上へと飛んでゆき星を籠いっぱいに摘むこともある。葡萄の蔓で編んだ籠は一瞬で光り輝き、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせながらたまにその星々をつまみ食いする。だから私はその女の子をダイヤモンドスワンと心の中で呼んでいる。
ダイヤモンドスワンは稀にもうひとりの女の子を腕に抱えて空に上がってくることもある。その女の子はダイヤモンドスワンのワンピースにしがみ付いて大変不機嫌そうな顔をしているのでこの空の青色があまり好きでないのかもしれないと思っている。私はその女の子のことをライブラリーさんと呼んでいる。
「ねえねえ私、鯨と話してみたいの!」
そうダイヤモンドスワンがライブラリーさんに詰め寄る。ライブラリーさんは分厚い本から顔を上げながら、
「また絵本で読んだの?」
「そう!空飛ぶおっきな鯨!素敵じゃない?」
私は元は絵本に出てくる空飛ぶ鯨で、ダイヤモンドスワンの閃きとライブラリーさんの知識によって誕生した。だから生みの親は絵本でありダイヤモンドスワンでありライブラリーさんであるとも言える。親と呼べるものがみっつもあって煩わしいと思うかもしれないが案外そういうこともない。
「あの雲の鯨ちゃんが生まれてからどんどん家族が増えたよねえ」
「最初のやつってどれだっけ」
「あの子だよ、あの子。ほら、お腹の裏に星の印がある一番大きな子」
ダイヤモンドスワンが私の模様を指差している。ライブラリーさんが片眼鏡を雲の原に放り投げて目を細める。
「…あいつか。最初の方はえらく往生したよなあ」
「そうそう、雲を形作るのって案外大変なんだよね」
今泳いでいる遊泳鯨達は全て私から派生したものだ。言わば私の家族、子供達。ゆらり浮かんで、ほらまたふたつがくっついてひとつの鯨に。あちらでは大きなものから泡のように離れて小さな子供が生まれ出る。この空を巣立って違う空へ行った子供もいるし一時離れてまた戻ってきた子、ずっとここを泳いでいる子、それぞれだ。だから私は親が何人居ようと特に構いやしないのだ(それにあの女の子ふたりは親という認識すら無さそうだし)。
「あの子は私達の暮らしをずっと見ててくれてるんだよね」
そうダイヤモンドスワンが笑う。そうだねとライブラリーさんが興味なさげに答えてから、まあ悪くはないけれどねと呟く。
「私達が一から作った子だからずっと見守ってくれてるのって、私はなんだか安心するよ」
「そりゃあ…得体の知らないものよりかはね」
「相変わらず素直じゃないなあ」
素直とか素直じゃないとか関係なくてとライブラリーさんが言うけれど、はいはいとダイヤモンドスワンがその大きな翼で彼女を包んだ。だって…とライブラリーさんのくぐもった声。
「だって、どこまで意識があるかは分かんないしまず眺められているのかも分からないし…やっぱり一度調査が必要かも」
じゃあ一緒にあそこまでゆく?私は何処までも君のこと連れていってあげるよ。
ライブラリーさんの声が途切れた。翼の中でもごもごと言い訳をしているのを聞いてダイヤモンドスワンが大きく笑う。そして翼を広げるとライブラリーさんがやっと解放されたと言わんばかりに銀色の髪をふるふると振った。
「じゃあこの話の続きはまた後でね。今日のご飯は何が食べたい?」
「…随分やり手だな。私を言い包めるなんてさ」
そうふたりの女の子が立ち上がってぱたぱたと服に付いたクォーツの欠片を払う。そしてゆっくりと今日も影の中へ帰ってゆく。きっとその中で今夜も温かなスープを飲んで深い眠りにつくのだろう。これではどちらが親なのか分からないと私は胸の内でくすくす笑う。けれど私はそんなふたりの女の子の見守りをそっと続けていきたいと思うのだ。もしもっと上の暗い空から火球が降ってきたならこの身を呈して守ってあげたい。もし彼女達の雲の原が地上に落ちるというのなら私が代わりに支柱となろう。それほどまでに彼女達は和やかで伸びやかで、そんな暮らしのひとつひとつが私を悠久の時へと導いてくれるのだ。
今日も明日も明後日も、ずっとずっとふたりは雲の原に座っておしゃべりをする。寝っ転がってお昼寝をして、泉に浸かって花を摘み雪の中で裸足になる。季節風が優しく唄っている。
「もし私達が居なくなってもあの子がこの空に居てくれたら、ここが帰る場所だと思えない?」
そうダイヤモンドスワンが言う。
そうだね、とライブラリーさんが答える。
「私達が作ったあの子の星の印が、帰る時の目印になってくれるだろうから」
だから私はここで泳ぎ続ける。
子供の絵本の空飛ぶ鯨が例え私ひとつになろうとて、私はここで遊泳を続けるのだ。
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