先人の糸を手繰り寄せ

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笛の音が心地よく頭に響く。ここに立っていなかったらそのまま眠ってしまいたいくらいに優しく、子守唄のようだ。揚幕が上がり、ゆっくりと一歩、また一歩と足を前に運ぶ。  すり足は腰を落とし、膝を少し曲げた状態で行う。なるべくつま先をそらないようにするのがきれいに見せるコツだ。本物の金の糸が縫いこまれている今回の装束は先祖代々、家に伝わってきたものだ。装束の中には二〇〇年も前に作られたものがあるとか。  それにしても今回の装束はいつもより重く感じる。時には総重量二〇キログラムを着て舞台に出ることもある。それだけでも肩が凝るというのに面(おもて)をかけて、鬘をつけるとなるとほとんど身動きが取れなくなる。  面の種類によって様々だが、目の部分に控えめに掘られた穴からは、ほとんど外が見えない。能楽師は長年踏んできた舞台の上を、自分の感覚と僅かな視界だけで、優雅に舞って見せる。天女の役の時には滑らかに、鬼の役の時には荒々しく堂々と。役によって足の幅、手の広げ方、すべてに同じものはない。  笛の音につられて舞台の中央までやってきた。私が所定の場所に来たのを合図に笛が止んだ。一瞬、会場は静けさに包まれる。この静かな空間には、緊張という糸がそこかしこに張り巡らされているのだ。  舞台に関わっている数十人の能楽師それぞれが、自分の役目を全うすべく、集中している。観客はこれから始まる日本の伝統芸能である『能』の洗礼された姿に緊張しつつ、室町時代の人々に思いを馳せる。  静かなピリッとした緊張感の中、ワキ方の第一声が舞台上で反響して会場いっぱいに広がる。  このゾクゾクする緊張感を体験してしまったらもう抜け出せない。  大きく息を吸って、私の至福の時が今始まる。
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