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「少尉、前々から気になっておりましたがその『君』と仰るの、どうにかなりませんか」
「えっ、なぜ今そんなことを……? 君でなければ何なのだ?」
「恐れながら『貴様』が適当かと存じます」
少尉は凛々しい眉をきゅっと顰めた。
「その言葉は好ましくないな。陸軍じゃあるまいし、呼び方くらい別に構わんだろう」
「なりません!」
鹿島軍曹は眼鏡を押し上げなおも進言した。鋭い眼光が少尉の大きな瞳を射抜く。
「良いですか、貴方は上官ですが若く新任でいらっしゃる! そんなことでは兵卒に舐められいざと言う時の指揮系統に支障をきたします!! 軍では個人の拘りは不要! 平時より威厳ある振る舞いをなさるべきです!」
少尉はふと頭上を見上げ数年前の出来事を回想した。
「なるほど……確かに海軍兵学校で後輩から多少舐められていたような気はする。では一度『きさま』の言う通りにしてみるとしよう。これでどうだ?」
「何ですかその腑抜けた呼び方はッ!」
少尉は肩を跳ね上げて驚いた。
「貴様ァ!! こうです。さあどうぞ」
「き、きさまあ!」
「声が小さいッ! もっと腹の底から、貴様ァァ!!」
「貴様ァ!」
「なっとらんッ! 貴様舐め腐っとるな!! 腕立て五十回!!!」
「了解ッ!!」
反射的に床に伏し腕立て伏せを始めながら少尉は、あれ? と呟いた。
「復唱! 貴様ァ!!」
「ふっ、ぐっ……! 貴様ァ!!」
「貴様ァ!貴様ァ!!」
「うおおお! 貴様貴様貴様ァァ!!!!」
霧島少尉は立派な体躯を激しく上下させながら八重歯を剥き、怒号に近い声を上げて貴様貴様と繰り返した。
──少尉と軍曹、中で一体何を……?
「おい鞍馬」
「あ、成松特務曹長殿!」
執務室の外に控えていた従兵(尉官の身の回りを世話する小姓のような兵士)鞍馬は、急な来訪に驚き思わず姿勢を正した。
「あーあー敬礼とかいいから。ところでしましまは一体何をやっとるんだ?」
わあわあと大声をあげ上司と部下が貴様と怒鳴り合う異様な物音に、特務曹長はノックを躊躇い拳を下ろした。
「さあ……声を聞いただけですが、私は関わりたくないでありますね」
「だよな。やっぱ帰ろ」
成松特務曹長は戦場で得た鋭い嗅覚に従い踵を返した。はたと立ち止まり胸のポケットを探る。
「あ、お前でいいや。これ霧島少尉殿に渡しといてくれよ」
「煙草……ですか?」
鞍馬は怪訝そうに顔を上げた。
「スター、欲しがってたから。机に飾りたいんだってよ」
「はあ。了解であります」
「じゃあな」
ヒラヒラと手を振りながら去ってゆくいなせな後ろ姿に、鞍馬はヒュウと短い口笛を吹いた。
(了)
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