ムーンライトにさよなら

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
   愛しい女がいた。その女は森の奥深くに小さな木の家をこさえ、日々質素に暮らしながらもほがらかな笑みを絶やさずにたたえている。  白銀の毛並みが美しい大きな耳をひょこひょこと揺らしながら、うすらぼんやりと明けていく朝を喜び、ほおを撫でる風にとろけるような飴玉の目を細め、夕暮れに染まる空を見送り、天で呼吸する星々をそうっと見つめている。  そんな女だった。  ある日、私は女のために木の実のタルトを焼いた。つやつやとした赤黒い実を飾りつけ、クッキー生地には酸味のきいたチーズのクリームをたっぷりと。華やぎには白い花弁を少々。彼女の好みは、すべからく把握していた。  女は、たいそうにそれを受け取ったのちにすっかりタルトを独り占めして、くるりと舞った。  「とっても とっても 嬉しいわ! ほんとうに ほんとうに ありがとう……。」  ふわりと広がるスカートは今朝方花を咲かせたナーシサスのように瑞々しく、光を纏ったさえずりは花の香りをたずさえていた。  次の日、女の家を訪れると、ベッドに横たわったまま女は静かに冷たくなっていた。白いシーツもふかふかの布団も乱れることなく、今しがた眠りについたかのように彼女を包みこんでそこにある。  数刻ぼんやり女の寝顔を見つめ、たまに口元に顔を寄せては息を確かめる。花の香りが青々と鼻腔をかすめるたび、血潮が渦を巻いてはじけた。  ふと、私は、女が星の欠片を集めていたのを思い出した。一緒に落ち星の抜けがらを寝かせてやれば、きっと喜ぶだろう。暖かいだろう。そう思い立ったなら、後は早かった。  毎日、落下してきた星々を手のひらにつつんで持ち帰り、  ひとつ ひとつ  そうっと女の周りに並べた。  毎日毎日明くる日も、夕食を食べるこさえ忘れて星が落ちてくるのを今か今かと待つ。  ひとつ ひとつ 増えていくたび、部屋には黄金の光が満ちていく。真昼間のような明るさを放つ。  そんなことを繰り返していたある日、女の顔と腕を残してすっかり星々がシーツを覆い尽くした頃。  いつものようにほのかな光を抱えるそれを女の胸元に置いたなら、目を瞑らずにはいられないほどのまばゆい光が煌々と、一瞬にして周囲を白く照らし、やがて沈黙した。  視界を覆っていた腕を外して恐る恐る目をひらくと、すぐ側にあったベッドも女の姿も、こぼれるほどの星々も、すっかり嘘だったかのように全て忽然と消えていた。  ただ、月明かりだけが置いてきぼりになった足元に、女の瞳のような翡翠が一粒、しずかに透きとおって転がっていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!