究極のカレーをめざせ

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究極のカレーをめざせ

ばちん、と顔の右側に衝撃が走る。「はいこっち向いて~」と体をくるりと回転させられて、今度は左側に、ばちんと来た。 鏡を覗くと、両耳たぶに、緑色の粒が光っていた。 * 母の死を知らせてくれたのは、エイプリルさんだった。彼女は私の前に、塔子よりも一日早く現れた。 エイプリル・ウォン。台湾人だが流ちょうな日本語を話し、塔子の養育係兼、遠峰谷家の執事だと名乗った。養育係にしてはずいぶんと若そうで、ぱっと見は20代にしか見えない。 最初はなぜあの遠峰谷家の関係者が私の病床に現れたのか、わけがわからなかった。 「それは、あなたが塔子さんの友達だからです」 エイプリルさんは簡潔な口調で話した。 「そして塔子さんは、あなたを遠峰谷家の養子に迎えることを望んでいます。代表──塔子さんのお父様も、それを了承しています」 身に覚えのない降って湧いたような話に、私は唖然とする。 「えっと……? でも私、母が……?」 ほぼ縁のない母のことを持ち出したのは、施設に「養子縁組ができる子ども」と「できない子ども」がいたからだ。実際のところ、できる子の方が少ない。生みの親のどちらかは生きていて、何らかの事情で育てられず、養子に出す同意は取れないというケースがほとんどだ。 しかしエイプリルさんは静かな目をして、「落ち着いて聞いてくださいね」と、私の手の上に自分の手を重ねた。クールそうに見えて温かい心のある人なのかもしれない。手のぬくもりに、そう思った。 母が亡くなったのは、私が高校3年生になった春、記憶をなくす1ヵ月ほど前のことだという。ある日の授業中、学校の事務員さんが教室にやってきて私を呼び出し、私はそこで母の死を告げられたのだそうだ。 しかし最も悪かったのは、それをきっかけに学内で母について調べる者が出てきたことだ。一般生徒は私が施設育ちということしか知らなかったから、母がいたという情報に、一部には妙な関心を抱く者もいた。 母は何年も精神を病んで入院しているらしく、そのことは学園側も知っていた。さらに数年前からは心臓も患っていて、死因はそれだったとエイプリルさんは言う。 私にとって物心つく前に別れたきりの母は、面影すら記憶になく、正直、どう思っていいかわからない存在だ。育ててくれなかったことを恨むほどの恋しさもなく、病気なのはかわいそうだと思うけれど、顔も思い浮かべられない人に、リアルな思いやりも持てない。 しかし、母が過去に違法薬物による逮捕歴があったことは、学園側も、私自身も知らなかったことだ。施設の先生たちは知っていたけれど、私には伝えるべきではないと、永遠の秘密として通すつもりだったらしい。入院する前から母は限界を迎えていて、薬物に頼るしかなかったのだろう、とエイプリルさんは話した。 しかし過去の児童ネグレクトのニュースから誰かがそれを見つけ出して、その噂が広まると、学園の経営者たちは、PR役である私の評判に傷がついたことを良しとしなかった。 奨学金の打ち切りを言い渡されたその日、私は学校の廊下で過呼吸の発作を起こして倒れたのだという。──そして、このベッドで目覚めた。 エイプリルさんの話を、私は妙に冷静な気持ちで聞いていた。記憶を失っていると知らされた時から、奨学金はもうだめだろうと覚悟していた。だけど、元よりすでにそのルートは詰みだったようだ。 それよりも、私を動揺させたのは突如現れた別ルートである。 「塔子さんは、あなたに遠峰谷家の養子になってもらい、特別奨学生としてではなく一般生徒として高校1年生から一緒に学園に通うことを提案しています」 それ……それが、意味がわからない。 「学費はもちろん、養父となる遠峰谷希於(きお)氏が最終学歴まで負担します。亜莉夢さんは、学園のPRのためではなく、自分のために自分のしたい勉強を自由にできるようになります」 そりゃあ、私には願ってもない話だけれど。 「そんなの……遠峰谷家には、一体何の得があるんですか?」 エイプリルさんの表情は、最後までポーカーフェイスだった。 「塔子さんが、友達を助けたいと願っているからです。代表はただ、塔子さんの願いを叶えることを望んでいます」 * 「カレーを作ろう」 塔子が言った。放課後、帰り支度をしている教室で。 今日エイプリルさんは、会社の仕事のために呼ばれて遠峰谷家にはいない。契約上は会社の雇用になっていて、遠峰谷グループにおいても実は重要な役割を担っているらしい。 いつも夕食はコックが用意してくれるが、今朝塔子が「亜莉夢と外で食べてくるから」と言って断っていた。 さらに珍しいことに、菜津と霧香も今日はいなかった。菜津は、親の会社の新商品の試食会に参加させてもらえることになったと言って張り切って出かけて行った。霧香は雑誌の撮影だ。 「無謀なのでは……?」 塔子は料理の経験が一切ないと言う。学力重視の希望学園は、調理実習を授業からカットしている。 私はといえば、大人になった時自立できるようにと、施設では一通りの家事を教えてくれた。しかし、不幸なことに私の手先は、生まれつきとてつもなく不器用だった。 せめて菜津がいれば料理スキルの平均値も上がるけれど、私と塔子ではゼロどころかマイナスもいいところだ。しかし塔子が問う。 「亜莉夢は、無難で変わり映えしないことと、無謀だけど変化があることだったらどっちを選ぶ?」 私は顔をしかめて塔子を見た。 「……塔子だけ私の性格をよく知っているのは、端的にずるいと思う」 塔子という人間は、大抵のことは一度教わればすぐにできてしまう。だから「亜莉夢の知識と私の器用さがあれば余裕だよ」と自信満々だったのだが、食材を調達しようという時点で躓いた。 「塔子、スーパーって知ってる?」 塔子はふんと鼻を鳴らす。 「それくらいはわかるよ」 そして加えた。 「行ったことはないけど」 私は内心焦りつつ、なるべく落ち着いた声で訂正する。 「私が聞いたのは、この辺のスーパーがどこにあるか知ってる? という意味だよ」 塔子はまっすぐに「知らない」と即答した。 「……まあいいわ、マップで探そう」 スマホを取り出した私の手を、塔子の手が止める。 「せっかくだから、街を歩いて探そうよ」 にやりと笑う塔子に、何かと冒険好きなのも困りものだと思うけれど、かく言う私もそれも面白そうかも、と思ってしまっているからひとのことは言えない。 私たちは森を抜けて、商店街に繰り出した。 さがのママのピアス屋は、森に一番近くて、まだ緑の多いエリアにある。商店街の他の店からは、ちょっと切り離された雰囲気だ。そこから道を一本渡って、遊具が何もない小さな公園の先に、整骨院と歯科医院が現れる。それから美容室、焼鳥屋、そして、ふとん店。 「亜莉夢は、『ふとん店』という種類の店があることを知ってた?」 「七森ふとん店」という看板を見て、塔子が問う。 「うーん、寝具を売ってるお店は見たことがあるけど、『ふとん店』というとは知らなかったかも……」 店頭には座布団や、枕カバー、それから婦人向けの服なんかも並んでいる。「ふとん打ち直し承ります」と手書きの貼り紙が出ていて、「ふとん打ち直し」が何なのか、私も塔子もわからなかった。 「これまでは、この店のこと気付かなかったの?」 歩き出しながら問うと、 「実は私も、商店街には数えるほどしか来たことがないんだ」 と言う。 「リルさんが執事になったのはこの1月からなんだけどさ」 「リルさん」というのは、言わずもがなエイプリルさんのことだ。塔子が「もう少し短い呼び名はある?」と本人に聞いたところ、友人からはリルと呼ばれていると教えてくれたのだそうだ。私はちょっとまだ、そこまで親しげな呼び方はできないでいる。 「それまでの養育係は、リルさんとは教育方針がまるで違って。商店街に行くことは禁止されてて、子どもだけで遊んでいいのは森まで。ピアス屋だけは、ほとんど森の中だから行ってもバレなくて、そこでさがのママやエニシさんと知り合いになった」 なんと当時の塔子は、現金も持たされずカードのみで、買い物はネットか、目的のものがある高級店に車で連れていかれる形だったとか。しかし養育係がエイプリルさんに変わった時、すべてががらりと変わった。まずはじめに言われたのは、「一般社会から切り離されたセレブではなく、多様な社会生活に対応できる大人に育ってもらいたい」だったらしい。 「それまでの人はみんな『お嬢様』って呼んだけど、彼は『塔子さん』って呼ぶ。私はそれが気に入ってる」 不動産屋、寿司屋、メガネ屋、コンビニ、ケバブ屋、パチンコ屋、ダンス教室、保育所、100円ショップ、もう1軒美容室、ラーメン屋が2軒。 そして最後にエニシさんのカフェがあり、その先はもう教会の前の広場だ。鳩ヶ谷さんの姿が噴水の向こうに見える。今日は座ったまま、えさを売らずに自分で鳩にえさをやっていた。塔子が「鳩ヶ谷さーん」と手を振ったけれど、気付かないようだった。 「スーパー、なかったね……」 それどころか、八百屋も精肉店もなかった。この町のどこかには、町の人たちが食材を買っている店があるはずだけれど、やはりマップで調べるしかないのだろうか。 とりあえず私たちは、エニシさんのカフェでちょっと休憩することにした。 「あら、スーパーなら駅前にあるわよ」 エニシさんがこともなげに言う。私にレモンケーキ、塔子にいちじくのタルトを運んできてくれた時。相談したわけじゃないけれど、私たちの会話が耳に入ったようだ。 「駅前っていうと……」 森を出て、ピアス屋と他の店を隔てる一本の道、そこを左に折れると、居酒屋や飲食店の多い通りを抜けて、バスロータリーに出る。その突き当たりが、海沿いを走る鉄道の「まりかの駅」だ。施設から学園に通っていた時はいつもそこのバス停からバスを利用していたけれど、スーパーなんてあっただろうか。 「バス停と反対側の、線路沿いの道に一本入ったところにあるのよ。この町の人は、だいたいそこで買い物してるわ」 私と塔子は、顔を見合わせた。 食材を買い集めたのち、私たちは遠峰谷家に帰ってきた。この家は、学園から見て商店街とは反対方向の、小高い丘の上にある。 駅前の、ローカル感あふれる「スマイル」というスーパーに入った時、開口一番塔子が聞いたのは、 「隠し味に何を入れる?」 だった。カレーといったら隠し味、というのが塔子の持論らしい。とりあえず私の頭にある「カレーの隠し味」の知識を総動員してみる。 「そうね……私も文字情報でしか知らないけど、ハチミツ、すりおろしリンゴ、ニンニク、味噌、インスタントコーヒー、チョコレートなんていうのも読んだことがあるかな」 「甘いのは気が乗らないな。よし、甘くないやつ全部試してみるか」 最初にマップを使わなかったノリでそのまま、ネット検索せずにカレー作りをやり遂げることが、いつのまにか私たちのミッションになっていた。 入ってすぐの野菜コーナーで、具材をどれくらい買ったらいいのか分からず、脳内で計算式をいろいろと並べる。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。カレーの具材といったらそんなところか。きのこも入れたら美味しいかも、としめじも買う。88円という値段に塔子は目を丸くしていた。この世にそんな値段のものがあるなんて知らなかったそうだ。 その先の売り場で見つけたルーのパッケージに、具材の分量も作り方もすべて書かれていたのを見て脱力する。塔子がカレーは辛い方が好きだというので、辛口を買った。私も辛いのは嫌いじゃない。 肉は、いろいろと迷った挙句ひき肉でキーマカレーにするか、牛肉を贅沢にごろっと入れるかが最終候補になり、牛肉が勝った。 「やっぱり天才がいると強いな。なんでも知ってるんじゃないか?」 たぶん一般的には全然「天才」と呼ばれるような知識を披露していないと思うけれど、塔子が言う。まあ、料理に縁遠い人間にしては、情報を多めにしまっておける頭脳を活用してよく頑張ったとは思う。 そう言う塔子は、キッチンの米のストック場所と炊き方だけは、ばっちりマスターしていた。なんでもスナック類を全然置かない家なので、夜コックが帰った後に小腹が空いたときは、米を炊いて食べていたそうだ。 「中学生くらいって、むしょうにお腹減る時あるだろ」 包丁とまな板の場所は知らなかったらしく、二人でやっと探し当てた。 「包丁は私に任せて。亜莉夢は指示に回ってくれたらいいよ」 塔子はそう言って、包丁の柄を、刃を下にした状態で鷲掴んだ。まな板に突き立てでもするつもりだろうか。 「包丁の使い方だけはユーチューブを見ない?」 危機を感じて塔子に提案してみる。私が手取り教えたって、それも危険なことになりかねないし、一度映像を見ればたぶん塔子は完璧に真似できる。しかし塔子は唇を尖らせた。 「ええー? ここまでネット検索なしで来たのに、諦めるのかい?」 「うーん」 私は腕組みする。 「じゃあ、これまでに誰かが包丁を使っているところを見たことは? テレビとか…」 塔子はしばし考えたのち、「ああ」と呟いて包丁を持ち直した。 「こうかな」 まな板の上でトントンとエアで切るフリをしてみせる手つきは、完璧だった。 私は玉ねぎの皮を剥きながら、塔子に口頭で、具材をどのくらいの大きさにどう切るのか伝える。さすがにピーラーくらいは私も使えるんじゃないかと思ったけれど、塔子に「手を怪我するからやめた方がいい」と取り上げられた。どちらにしろ、透子の手際がおそろしく良いのに比べて、私の手つきがおぼつかないので、玉ねぎを剥き終わるのと塔子が他の具材を処理し終えるのが、ほぼ同時くらいだった。その玉ねぎを刻むのも、塔子にかかればあっという間だ。 「あとはこれをカレーにすればいいんだな」 そう言って塔子が鍋に水を注ぎ始めたので、私は「ちょっとちょっとちょっと」と慌てて止める。 「塔子、カレーを作る時は、水は後から注ぐんだよ」 塔子はきょとんとしている。 「汁物なのに?」 カレーが汁物かどうかは議論が分かれそうだけれど、ここから先の工程はすべてルーの箱に書いてあるのに。料理をしたことがない人ほど説明書きを読まないのは、あるあるかもしれない。 私の指示に従って、塔子は具材を炒め、水を加え、ルーを割り入れる。 「カレーの作り方がこんなにきっちり決まってるとは知らなかったな」 しかし、そこまでは概ね問題なく進んだといえる。問題は、隠し味だった。スーパーで見つけたチューブのにんにくと、味噌と、インスタントコーヒー。 まず塔子はにんにくチューブを大胆にカレーの上に絞った。 「まずはこれだけで味見してみよう」 かき混ぜてお玉にすくったカレーを、まずは私に差し出し、それから自分も一口。 「……あんまり変わらなくないか?」 「うーん、香りは少しあるかな? 味は、本当に“隠し”味って感じ……」 続いて味噌を投入してみることにした。大さじ1杯くらいの味噌を、少量のお湯で溶かしてから入れる。 「……ああ! これはちょっと違う!」 「うん。コクが出た感じ? 美味しいかも」 そして最後に、インスタントコーヒー。塔子はそれを、開封した瓶からそのままがさっとカレーの上に振りかけた。 「ちょっと塔子!? そんなに入れていいのかなそれ」 塔子はけろっとしている。 「まあ、なんとかなるだろ」 差し出されたお玉を、私は複雑な気持ちで見つめる。ええい。何事も挑戦だ。 「……塔子。苦いね」 「……うん。苦いカレーというのは、初体験だ」 ダイニングの果てしなく長いテーブルの、端っこの角に二人まとまって座り、カレーを食べる。あの後、水とルーを増やしたり味噌も足したりして、どうにか食べられる味にはなったけれど、なんとも独特のカレーが出来上がった。 「うーん。これが我々が目指した究極の味か……」 「究極というよりは、わりと中途半端な味……」 塔子と私は吹き出した。今日一日あったことを振り返って話しながら食べたら、中途半端な味のカレーも完食していた。 皿洗いのすすぎくらいは私もなんとかお皿を割らずに手伝って、調理用具を元の場所にしまい、シンクも拭き、何事もなかったようにキッチンを復元する。 「まあ、気付くだろうけどね。カレーの箱とか野菜の皮が捨ててあるし」 塔子の部屋で、ベッドにどさりと寝ころびながら、満腹の塔子が言う。私はデスクの方から引っ張ってきた大きなリクライニングチェアの背を倒してくつろぐ。遠峰谷家に住むようになって、私も個人部屋を与えられたけれど、寝る時以外は塔子の部屋にいることが多い。ここと同じくらいの面積の私の部屋は、一人でいるには広すぎるし、勉強するにも遊ぶにも、二人での方が楽しい。一人はむしろ好きだと思っていたのに、塔子とはいくら一緒にいてもストレスにならないから不思議だ。 ジリリリリ、と、昔の黒電話みたいな音が鳴った。 「あれ、家電(いえでん)にかかってくるなんて珍しいな」 塔子が体を起こして、取ってくる、と、廊下へ出ていく。私は頷いて、塔子を見送った。座ったままゴロゴロと椅子のキャスターで移動して、退屈しのぎに塔子のデスクにあるものを眺める。備え付けの小さな書棚に、スケッチブックが何冊も並んでいた。ずっと描き溜めてきたんだな。一番最近のものは見せてもらったことがあるけれど、過去のものは見たことがなかった。 私は適当にそのうちの一冊を手に取る。表紙に「**19.1.9~**19.6.20」と書かれていた。今から3年前だから、塔子が中1、私が中3の頃だ。ぺらぺらとめくってみる。画面全体に一つの風景が大きく描き込まれているものもあれば、誰かのかばんについたキーホルダーとか、水たまりに浮かんだ木の葉とか、単体で小さく描かれているものもある。きっとどれも、記憶の映像から描いたものなんだろう。 ふと、あるページで私は手を止めた。 「……私?」 それは、中等科の体育館で、何か集会の風景のようだった。おそらく壇上に呼ばれる前、舞台下で待機しているのは、どう見ても私だ。実際こういった場で表彰されることはしょっちゅうだったので、身に覚えのある光景だった。 描かれている私は、まるで戦闘開始前のような、やたら据わった目をしている。表彰される時はにこやかに微笑んで模範的な特別奨学生を演じ切っていたつもりなのに、その一瞬前を切り取られていたとは、ちょっと気恥ずかしい。さすが塔子だな……と思うと同時に、違和感も覚えた。 なぜ、言わなかったんだろう。塔子自身も忘れていたんだろうか。 私はその一冊を元のところに戻すと、表紙の書き込みから、該当の年数を探した。スケッチブックはちゃんと日付順に並んでいる。「**19.12.21~**20.4.5」。ページをめくってすべてのスケッチを見ていく。「**20.4.10~**20.10.4」。ない。「**20.10.10~**21.3.19」。ない。塔子は2年前と言っていなかったっけ? さらに先も探してみる。「**21.3.25~**21.9.10」。ない。そして「**21.9.18~**22.3.5」が、今塔子が描いている最新のスケッチブックの、ひとつ前のものだった。つまりこれが最後。 ──東屋の絵がない。 東屋で私と出会った時のことを、塔子は「美しかった」と話していた。独自の厳しい審美眼を持つ塔子が、美しいと認めるものは限られている。そしてそれらは必ず塔子のスケッチブックに描き留められる。私が知る限りは。 「父からの電話だった」 塔子が部屋に戻ってきてまず言った。私は手にしていた最後のスケッチブックを棚に戻す。 「スケッチブックを見てたの?」 「うん、今のひとつ前のやつ」 塔子が何かに気付いただろうか、と表情を窺うけれど、動揺は読み取れなかった。しかし、瞳からさっきまでの明るさが薄れている。 「お父さん……何か言ってたの?」 「うーん……」 塔子は珍しく言い淀んだ。 「そのうち、話すよ」 なんだか塔子らしくない返答だ、と私は思う。スケッチブックのことは、聞かない方が良い気がした。──実のところ、塔子の言動に疑いを抱いたのは、これが初めてではなかったし。 * 『亜莉夢は、無難で変わり映えしないことと、無謀だけど変化があることだったらどっちを選ぶ?』 そう、私は、そうなのだ。 どれだけ危ない橋を渡ることになるとわかっていても、先が予想できる道より予測のつかない未来を選んでしまう。だから希望学園にも入ることにした。 リスキーなのは最初からわかっていた。いくら勉強が得意とはいえ、私と同じくらいか、それよりもっと知能の優れた人間がこの世にいないわけじゃない。もしかしたら、ちょうど私の学年が秀才の多い年だったりするかもしれない。成績競争の結果がずっとふるわなければ、学園は奨学金を出し続けてはくれないだろう。 それに、イメージというものはちょっとしたことで簡単に崩れる。プライベートを犠牲にして学園のための模範生をやり続けていたら、私だってはめを外したくなる時が来るかもしれない。ちょっとした油断で足元をすくわれて、だめになるかもわからない。 それでも私は、面白そうだと思ってしまった。実際大学には行きたかったというのもある。けれど一番の理由は、無謀な挑戦であるという、それ自体だ。無謀だからこそ、やってみたくなってしまった。 最初に違和感を覚えたのは、エイプリルさんの説明を聞いた時だ。 もともとリスクを承知で入った学園だから、奨学金打ち切りを言い渡されたというだけで、私が倒れて記憶を失うほどのショックを受けるとは到底思えなかった。もちろん顔も分からない母の死も、母の過去も、原因とは思えない。精神的ショックで記憶を失ったのが本当なら、おそらく、もっと大きな何かがあるはずだ。 次におかしいと思ったのは、塔子が私との出会いを語った時。 塔子は私の携帯が学園に監視されているから、連絡先を交換しなかったと言った。それは事実だ。携帯もパソコンも、私の持つ通信機器はすべて学園からの支給品で、常にモニタリングされている。 しかし──私なら、できるのだ。学園に知られずに、塔子と連絡を取ることが。 中等科に入学してすぐの時点で、モニタリングをかいくぐるフィルターを開発して、支給されたパソコンですでに使用していた。学園に知られたくない検索なんかはすべてそれを通して、勘付かれている様子がないのも確認済みだ。なぜ過去の私は、塔子と連絡先を交換しなかったのか。 最初から懐疑的だったのに、遠峰谷家の養子の話を受け入れたのは、やはりこれも、危うきに自ら近寄る私の性格ゆえだ。疑問の答えがわからないまま離れるより、中に飛び込んで、謎を解き明かしたかった。むしろ訝しいところがなかったら、他人にいきなり自分の人生の世話をしてもらうような話は、断っていたかもしれない。 そして飛び込んでみてどうなったかというと。……疑わしい点はさらに増えていた。 たとえば私が、「塔子は男の子みたいな話し方をするんだね」と言った時。 「男の子みたい、と思うかい?」 と、塔子は片眉を上げた。 「私は、言葉の中に性別を入れたくないんだ」 塔子は“女言葉”も“男言葉”も使わないようにしているのだと話した。なるほど、と感心すると同時に、なぜ、初めて聞かれたように答えてくれるのだろうとも思った。以前の私は、同じことを塔子に訊ねなかったのだろうか。 今日の商店街でもそうだ。エイプリルさんが執事になる前の塔子の状況を、以前の私には、まったく話さなかったのだろうか。前の私にあるはずで、今の私にない知識の一つひとつに、はっとしたり、逡巡する様子が少しも見えないのは、私を気遣って見せないようにしているだけか? しかし、疑惑が深まるのと矛盾するように、塔子との距離はどんどん縮まった。今の私が、塔子という人間を好きになっていることは、否めない事実だ。 (もしも裏切られたら、私はどうするんだろうな……) 裏切りが何を意味するのかも、今はわからないけれど。 * 変化は、思っていたよりも早く訪れた。 翌日の学校で、塔子が英語のスピーチコンテストに出ることが発表された。塔子は学園長に呼ばれ、そしてそのまま……私や霧香や菜津の前から姿を消した。 担任は、塔子が特別授業を受けることになったので、この教室にはもう来ないと言った。エイプリルさんが、塔子は父が用意した教育プログラムを受けなければならないので、しばらく遠峰谷家には帰ってこないと言った。やがて私たちは、学内のモニターでのみ、塔子の姿を見るようになった。別人のようにすました笑顔で、学園をPRする──つまりそれは、かつての私の役割だったものだ。 「……塔子にも、きっと何か理由があるんだよ」 菜津が静かに、私の肩に手を置いた。 「亜莉夢大丈夫? 私たちそばにいるからね」 霧香が心配そうに私の顔を覗き込む。 「うん……ありがとう」 二人に笑顔を返し、私はモニターに映る塔子を見上げた。 遠峰谷家、塔子の部屋、デスクトップ。クッションの効いたリクライニングチェアに深く腰掛ける。 パスワードを突破するのは、そう難しいことではない。しかし、こんなところに重要なデータを残しはしないだろう。でも……方法はいくらでもある。
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