さよなら茉莉花野町

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さよなら茉莉花野町

※トリガー警告 本編中に、いじめ・嫌がらせ・誹謗中傷の描写があります。 身体的暴力描写はほとんどありませんが、ショッキングな描き方の部分があるので、トリガーの懸念がある方はご注意ください。 --------------------------------------------------- よく磨かれた窓の外は、下半分はミニチュアの街、上半分は雲のない青空。こんな五月晴れの日に、一歩も外に出ることがないなんてもったいないなあ、と思ってしまう。 亜莉夢たちは、こんな日には何をして遊ぶだろう。教会の前の広場にポップコーンの屋台が出てるかもと、菜津が誘うだろうか。海岸の堤防に腰掛けて、霧香のギター弾き語りを聴くのもいい。 「お嬢様」 リルさんとは違う、私の嫌いな呼び方で私を呼ぶ人。 「お勉強の時間です」 ここに、私の美しいと思うものは一つもない。けれど、やりこなしてみせようと思う。 * 希望学園は、表向きの経営者は遠峰谷(こだま)グループと別名義になっているが、もともと遠峰谷家一族の子女を通わせるために作られた教育機関だ。その実態は遠峰谷グループの一法人とほぼ変わりない。そして、優秀な一人の生徒が学園のイメージアップのためにキャラクター化されるのは、昔からの伝統らしい。 この初等科から大学院まである一貫校で、PR役を担ってくれる生徒が一人見つかれば、およそ10年前後はその働きが担保される。その一人が学生生活を終えた後は、5年から10年のうちにはまた新しいPR役が立つ。 父が私にその役を担わせようとしていたのは、奨学金を出す必要がなく、家柄バイアスでそこそこの優秀さでも良いイメージが保てるので、手っ取り早いと踏んだのだろう。小学生の頃から家庭教師による英才教育が始まった。 しかし私は、自由を奪われるのが嫌だった。映像記憶がある私にとって筆記テストはカンニングをしているようなものだったが、その記憶を頼りに、上位半分にギリギリ入るくらいの結果を取っていった。成績が良すぎてもいけないけれど、悪すぎてもはっきり故意だとわかってしまう。英才教育を受けてもこの程度だと思わせるくらいがちょうどいい。 ただ……それで免れていられるのも、今のうちかもしれないとは思っていた。中学生になれば、父はもっと強引な方法で──たとえばテスト結果を改ざんしてでも、私にPR役をさせるかもしれない。そして、衣食住を頼るしかない子どもから、親が自由を奪うほど、たやすいことはない。 そんな危惧を抱いていた初等科5年生の時、彼が現れた。 中等科にIQ160超えと噂される天才が特別奨学生として入ったという知らせが、学園中を巡った。どうやら大人たちはどこからか有望な人財を見つけてきて、私に期待するのをやめたようだ。 私がやらなかったことを誰かに負わせてしまったという、後味悪さを感じないわけではなかった。けれど、もし私が引き受けていたとしても、本物の天才で奨学金を必要としていて見目も良い生徒が現れたら、どっちみち私はお払い箱だったのかもしれない。なにより、本人が選んだことに私が罪悪感を抱くのも、おこがましいように思えた。 ただ、木下亜莉夢という人間については、ちょっと気になった。大人たちの手によって生存と自由を天秤にかけられる立場という意味では、亜莉夢と私は似ている。まるで私の影と、亜莉夢の影が重なるところで、同じ大人がその影を踏んでいるような気がした。 2学年上の亜莉夢と接点を持つことはほとんどなかったけれど、私が中学生になってやっと同じ校舎に通うようになった。当時は全校生徒の前で表彰される亜莉夢を何度も見た。完璧な模範生だった。 ある日の集会で、私は前日遅くまで推理小説を読みふけってしまって、立ったまま寝そうなくらい究極に眠かった。気がつくと目を瞑ってしまっていて、頭ががくんと落ち、踏み外した足が一歩前に出る。はっと目を開けたその時、舞台下で待機している彼が見えた。木下亜莉夢は──今から戦いに行く顔をしていた。 その美しさに見惚れていたら、立ち眩みで倒れそうなのと勘違いした教師が助けに来て「座っていなさい」と告げた。ありがたくそれにあやかって、自分の膝の上でうとうとしながら、さっきの亜莉夢の表情を思い出していた。 すべて覚悟の上なんだな。同情すら受け付けないくらい。 最初は、小さな噂からだった。木下亜莉夢の母親は最近まで存命だったらしい、と。私が高校に上がった春のことだ。 施設育ちの子の生みの親が生きているなんてことは不思議でもなんでもないと思うけれど、それをあたかも経歴詐称のように捉える人間もいた。やがてそういう輩の中から、亜莉夢の母の逮捕歴の噂が流れ始めた。それが事実にしても虚偽にしても、亜莉夢には何の非もないことだ。 これまでで一番、亜莉夢に会いに行きたい、話したい、と思った。だけど、このタイミングで遠峰谷家の人間である私と亜莉夢の接触がどう捉えられるかと思うと、危険が勝る。どうしたらいい、何ができる……。考えている間に、それは起こった。 その日は、年度初めの生徒会集会だった。体育館の床に三角座りした生徒たちの前で、生徒会長が、彼らが取り仕切る行事やその役割について説明している。ステージは使わず、舞台下に生徒会役員たちが並んで立っていたのを覚えている。さなか、突然放送が流れた。 ボイスチェンジャーで変えられた声。街中で喧伝して走る車のような、聞き取りづらい音声だったけれど、次第に亜莉夢を糾弾する内容だとわかる。 「木下亜莉夢は私たちを騙している」 「犯罪者の子」 「模範生の木下亜莉夢は虚像だ」 教師もほとんどの生徒も、突然のことに呆然としている。次の瞬間、ステージ上の降りた緞帳の前に、昔のアニメキャラのお面をつけた数人の生徒が亜莉夢を引っ張ってきた。それは、おそらく計算された段取りの良さだった。男子の制服を着たお面の一人が壇上から下り、生徒会長のマイクを奪い取る。 「全校生徒のみなさん、奨学金泥棒の詐欺師は罰を受けるべきですか?」 その声と同時に、一斉に立ち上がる生徒たちがいた。数にして20人くらい。そのままステージのそばまで押し寄せる。 ──彼らもグルだ。 そう気付いた時には、ステージ下に集まった生徒たちがバリケードになって、止めようとする教師もなかなか近づけない状況になっていた。 亜莉夢は険しい顔だったけれど、脅えているというよりは、考えているようだった。どうやったら被害を最小限にとどめられるか。その表情に、奮い立たされるような気がした。 私も、私のできることを── 私はステージに向かって駆け出した。思いつくことといったら、とにかく亜莉夢を助けてやつらを止めるくらいしかなかった。何人かの教師たちと一緒に、人垣を突破してステージに近づこうとするが、妨害されなかなか先へは進めない。 「みなさん、本当はこいつを恨んでるでしょ? 俺たち、この詐欺師にどれだけ苦しめられました?」 マイクの男が、体育館の後ろの方でざわついている生徒たちに向かって言った。目の前で起こっている事態に動揺して立ち上がりはしたものの、前にも後ろにも行けず、ただ遠巻きに成り行きを見守っていた彼らは、多くは手にスマホを持っていた。動画を撮っているのか、SNSに投稿しているのか……何にせよ不測の事態における、10代の最高のお守りはスマホだ。 霧香と菜津も来て、妨害者を引き剥がすのを手伝ってくれる。ほかに良心的な数人の生徒もバリケードを破ろうとする側に加わったが、大多数の、傍観している生徒たちに向かって、マイクの男は煽った。 「昔は優等生って呼ばれてたのに、こいつが来てから出来損ないの凡人扱いになって、こいつが消えてくれればいいと思ってた人、いっぱいいるんじゃないですか?」 お前を出来損ないと呼んだのも、凡人と呼んだのも、亜莉夢じゃないだろう。そう思ったその時、叫んでいればよかったのかもしれない。そうすれば、何かが違っていたのかも……けれど私はその時、亜莉夢を助けに行くのが優先だと判断した。 「俺たちも、こんなところで暴力沙汰を起こすつもりはないんですよ。ただこいつにちょっと思い知らせてやりたくないですか?」 マイクの男が、聴衆に向かって一段と高い声を上げる。 「木下亜莉夢に消えてくれと思ったことがある人は、なんでもいいので携帯で何か音を鳴らしてください」 しばしの沈黙の後──もしかしたらそれは、誰かの着信音が偶然鳴ったのかもしれない。もしくは首謀者が最初から用意していたのかもしれない。何にせよ、よく耳にする、メッセージ着信のピコン、という音がどこからか鳴った。そして誘発されたように、アラーム音、音楽、ゲームのような音、動画の音声。それはざわめきのように広がった。 「えっ嘘、何……」 不意にステージ上がざわつく。 「は? なんで寝てんの?」 戸惑いの声は、亜莉夢を拘束していた数人から上がっていた。動揺した彼らが亜莉夢から手を離すと、そのままどさりと床に倒れる。体育館を埋め尽くしていた電子音の波が一気に静まる。それがあまりにも静かで眠るようだったから、彼らは勘違いしたのだろう。木下亜莉夢は気を失ったのだ。 ようやくステージに一人の教師がたどり着いて、首謀者や関与していた生徒たちは、散り散りに逃げ出す。お面をつけた生徒は皆捕まったようだが、バリケードになった生徒たちには、ほとんど逃げられたようだった。亜莉夢も養護教諭に意識を確認され、目覚めないとわかると、担架で運ばれていく。──その場において、私に為せることは何一つなかった。 「木下亜莉夢のこれまでの高校生活について知りたい」 遠峰谷家のリビングで、そう切り出した私に、リルさんはいつもの無表情を返した。亜莉夢はあの後、保健室でも夜まで目を覚まさず病院に搬送されたと聞いた。 「妬んでいるやつは昔からいたけれど、中学の時はあそこまでじゃなかった」 「……理由はだいたい、察しがつくと思いますが」 高校の成績競争が中学よりもずっと苛烈なのは、私も知っている。希望学園は一貫校ではあるが、大学には高校時の成績順に3分の2までの生徒しか入学できない。3人に1人が落第者になるというその割合は、かなり安定した成績優秀者でないかぎり、ほとんどの生徒にとって身に迫る大きな問題だった。その中で、亜莉夢という成績において絶対強者でありつつ経済的弱者でもある存在への、嫉妬と侮蔑の入り交じった感情はよりエスカレートしていたのだろう。 「知りたいのは、理由じゃないんだ」 私がリルさんに頼みたいと思ったのは、これまでにも亜莉夢に対するいじめや嫌がらせの類があったのか、それに関わっていたのは誰かを徹底的に洗い出すこと。そしてもちろん、今回の計画に関わった者もすべて。 リルさんが、ポーカーフェイスを崩して顔を曇らせ、私を見つめる。 「代表に頼みごとをするなら、交換条件が必要になるのは承知の上ですね」 私はにっこりと笑った。 「大丈夫。とっておきのカードを持っているんだ」 その「とっておきのカード」をもって、私は父と交渉し、木下亜莉夢に危害を加えた者全員の退学処分と、亜莉夢の遠峰谷家への養子縁組の了解を取り付けた。すべては亜莉夢が、学園で望む勉強を続けられるためだ。 当初は、あの事件の首謀者たちも成績優秀者ばかりだったので、停学や厳重注意で済まされる予定だったようだ。亜莉夢にスキャンダルがあった今、学園は大事なPR役を失った穴を埋めるのに必死だ。だからこそ私の提案は、すんなり受け入れられた。 もちろん養子の件は、亜莉夢本人が望めばの話だが──当の亜莉夢はその日も丸一日、目を覚まさなかった。 リルさんから連絡が入ったのは、亜莉夢が倒れて3日目、4時限目が終わった時のこと。 「き……」 リルさんの言葉をおうむ返ししそうになって、慌てて口をつぐんだ。学校では誰に聞かれるかわからない。 (記憶障害?) リルさんが電話の向こうで状況を語る。どうやら亜莉夢には、高校1年の入学時までの記憶しかないというのだ。それ以降のことは完全に忘れている、本人にどのように告知するか今医師と相談中だと、リルさんは話した。 電話を切ると同時に、私の頭に、たくさんの雑多な考えが流れ込んでくる。 2年もの記憶を失うのは、恐ろしいことだ。あの天才が、2年間積み上げた自らの知識や研究や考察を失ったショックは計り知れない。しかし……あの残酷なシーンを彼が覚えていないことに、ほっとしてしまう気持ちがあるのも事実だ。 もしかしたら──と考える。あの優秀すぎる頭脳が判断した、自らの被害を最小限に留める方法が、記憶を失くすことだったんじゃないか? あれほど大きな事件は初めてにしても、亜莉夢に危害を加える生徒の行動は、高校に入ってすぐの頃からずっと続いていたようだ。ネットでの誹謗中傷、物を盗られる、破損される、サバゲ―用のエアガンの弾がどこからか飛んできて腕に跡が残ったこともあったとか。もはや傷害事件じゃないかと思うけれど、学園側は亜莉夢に調査しておくと言ったきりで、犯人は誰一人特定されていない。 教師たちもどこか、有名税のような感覚で見ていたのかもしれない。学園のPRのためにプライベートのない亜莉夢の生活は、実質芸能人のようだったし、学内でもほとんどそのように見られていた。警察沙汰になるような被害でないうちは、ままあることと、皆、感覚が麻痺していたんじゃないだろうか。 しかし亜莉夢自身の味わった恐怖はどうだろう。他人から見えるよりも、それは大きなストレスだったのではないか。脳が思い出すことを、拒否するくらいに。 放課後、菜津と霧香に声をかける。 「ちょっと協力してほしいことがあるんだ」 あの電話からずっと、どうすべきか考えていた。だけど、答えはやはり──できることをすべてやる。それしか見つからない。 * 茉莉花野町を離れて、一週間ほど経った。都会のビル街の中にある、遠峰谷グループ系列の高級ホテルの最上階。ここで寝起きし、私のために用意された家庭教師の授業を受け、合間に学園PR映像の撮影や取材をこなす。週末には、スピーチコンテストが待ち受けている。もしかしたら、茉莉花野町や茉莉花野の森を歩くことも、さがのママのピアス屋に行くことも、エニシさんのカフェに行くことも、二度とないのかもしれない。 私が父に交換条件として差し出したのは、自らの自由。拒否していた学園のPR役を受け入れることだ。 これは、自分が負うべきだった役目を押し付けてしまった、亜莉夢への贖罪なのか、それとも他の何かなのか。自分でもわからないけれど、ただ言えることは、迷いは少しもなかった。 そして、亜莉夢という人間と関わり、知り、愛した今、これこそが自分の生きる目的なのではないかとさえ感じるのだ。
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