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鳩ケ谷さんをさがせ
──あの森の東屋で、あなたは美しかった。私が、あなたを見つけたんだよ。
*
「ピアス屋へ行こう」
放課後、塔子がいつものきっぱりとした口調でそう言った。
「ピアス屋」
聞き慣れない業種を、私はそのままおうむ返ししてしまう。
「亜莉夢は知らない? ピアス屋」
ふわふわの天然パーマを三つ編みにした霧香が、三日月形の目で微笑む。中学の頃は友達もいなかったし、勉強ばかりで、この茉莉花野町にどんな店があるのかも知らなかった。
「本当は雑貨屋らしいんだけど、売ってんのほとんどピアスなの。店のママがピアスマニアなんだ」
ぱっつんの前髪が個性的な菜津は、大雑把だけど一番わかりやすい説明をくれる。
「私たちみんな、ピアス屋の〈さがのママ〉に空けてもらったんだ」
そう言って塔子は、耳たぶに光る丸い紫色の粒を見せた。
「ピアスって、校則違反じゃないんだっけ?」
問うと、塔子は笑って首を振った。
「今どき、そんな校則あるかい?」
そう言われれば、そんなものか、という気もする。とりあえず「ピアス屋」という妙な呼ばれ方をしている店には興味が湧くし、塔子たちについて行ってみることにした。
とはいえ、塔子の判断はいつも正しく、塔子がやろうと言ったことが面白くなかったことなどないので、そもそも他の選択肢などないのだ。
「あら、新顔ね」
〈SAGANO〉という看板がかかっているその店は、茉莉花野の森を抜けてすぐの、商店街の一番手前にあった。店主の「さがのママ」は、体のすべてが甘いパンだけでできていそうな女性で、私を見るなり微笑んで言った。
「この店に足を踏み入れた子はみんな私の娘よ。私はあなたたちを守るためにここにいるんだから」
初対面にしてはずいぶん重いセリフに面食らっていると、塔子が耳元で「変わった人だろ」と囁く。
「もう、聞こえてるわよ、失礼ね」
さがのママが両腕を小さく振りながら怒る仕草に、塔子はハハ、と笑い声を上げる。
店内は本当にピアスだらけで、何列も並ぶ低い陳列棚がキラキラと輝いていた。しかし窓際に飾られたアンティークっぽい人形や木箱などをちらりと見ると、値札がついていて、一応雑貨屋の体も保っているらしい。
「私、穴開けてないんですけど」
さがのママは、「イヤリングに変えることもできるわよ」と応じる。
「だけど、この店に来た時は、何も買わなくてもいいの。ただキラキラしたものを見て、ちょっと安心するだけでもいいのよ」
キラキラしたものを見て、安心する。ちぐはぐな感じのする言葉だけれど、妙に納得する響きにも思える。木の扉がキッと音を立てて、新たな客が入ってきた。
「ゴージャスな人」、というのが、第一印象だった。鮮やかなオレンジ色のミニワンピースと、アップにまとめた黒髪。ワンピースの下から伸びる長い褐色の脚が外国のモデルみたいだ。
「あらエニシさん、ここにくるなんて珍しいわね」
さがのママが言った。
「ご無沙汰だったわね、ママ」
女性にしては低いその声に、改めて顔を見つめてしまって、失礼だったかと慌てた。エニシさんはそれに気づいたのか、私を見てにこりと微笑む。
「トランスジェンダーに会うのは初めて?」
「あ、はい、あの、すみません」
縮こまってしまう私に、エニシさんは「いいのよ、かわいい子ね」と笑う。「キラキラしたものを見て安心する」という、さっきのママの言葉を思い出した。この人も、そんな感じだ。エニシさんはさがのママに向かって話し出した。
「最近鳩ケ谷さんの姿が見えなくて、ママ何か知らないかな、と思って」
我々がいかにも興味ありげに注目しているので、ママが説明してくれる。
「鳩ケ谷さんは、ふもとの大きい教会の前でいつも鳩のえさを売っている人なんだけれど」
鳩のえさを売っている鳩ケ谷さん。冗談のような情報に、思わず「本名ですか?」と問い返してしまう。場違いだったかと後悔したけれど、横を見ると霧香と菜津もぽかんとしていた。塔子だけは平然としている。
「うーん、本人が名乗ったら、それが本当の名前じゃない?」
さがのママは、シンプルな答えをくれた。たしかに当事者に不本意な呼び名でないとわかれば、それで十分なんだな、と思った。塔子があごに手を当てながら話す。
「彼なら、私も姿を見たことがありますよ。学校の連中も『鳩ばあさん』とか呼んで、みんな知ってるみたいだったな」
塔子が「彼」と言ったのは、男性という意味ではない。私も最近知ったことだけれど、塔子は性別問わず誰のことも「彼」と呼ぶのだ。ママは言う。
「住所はないと言っていたの。ご高齢だし、エニシさんのカフェが教会の近くだからいつも気にかけてくれていたんだけど」
エニシさんはカフェを営んでいるらしい。
「でも、鳩ケ谷さんのことはエニシさんの方がよく知ってるんじゃない?」
不思議そうなさがのママに、エニシさんは、
「ほらここって学校の子たちがよく来てるでしょ。同級生が野宿者をいじめた話なんか聞いてないかしらと思って」
どうやら私たちの情報網は、大変不名誉な形で期待されているらしかった。実際我が学園は名門校なんて呼ばれているけど、成績競争をあおられて鬱屈し選民意識をこじらせたような生徒も多いから、あってもおかしくない話ではある。でも幸いに、そういう噂は私たちの誰も聞いていなかった。
「……ん?」
そこでさがのママが、塔子の表情に目を光らせた。
「あなたまさか、少年探偵団みたいなことしようと思ってないわよね」
塔子は狐につままれたような表情をしてみせて、それから微笑み、首をかしげた。
「え? なぜ私が、そんなことを?」
「鳩ケ谷さんを探そう」
ピアス屋を出て開口一番、塔子は言った。
「言うと思った」
菜津がにやりと笑う。さがのママはさっき、「やめなさいよ、これは子どもが首を突っ込むようなことじゃないのよ」と言っていたけれど。
「心配じゃないか。探して見つかるかもしれないのに、探さない理由はない」
塔子が明朗な口調で言う。そしていつもどおり、私たちに塔子の提案に乗る以外の選択肢はない。
ふもとの大きい教会は、ヨーロッパにあるようなゴシック様式の立派な建築だった。私が感心して「きれいだね」と言うと、塔子は「そうかい?」と片眉を上げた。塔子の前で、美について語るのはいつも難しい。
塔子は絵を描く。それも、実際に見た風景を、その場にいなくても詳細に思い出して描いてみせる。どうやら「映像記憶」とか「写真記憶」とか呼ばれる能力があるようだ。塔子が描くのは、彼女が日常の中で美しいと認めたシーンだけ。そこには独自の美学があり、他の誰の意見にも囚われない。
私たちは、教会の周辺で鳩ケ谷さんについて何か知っている人がいないか、聞き込み調査をすることにした。
しかしこの辺りによく来る人たちは、たいてい鳩ケ谷さんの姿は見たことがあるけれど、鳩のえさを売っていること以外は何も知らない。
「……そりゃそうだよな。私たちだってそうだったもんな」
塔子は天を仰ぐ。私はふと、教会の門の向こうに目をやった。
「ねえ、あの人に聞いてみるのは?」
指差したのは、教会の中庭で、エプロンをつけた女性と話している背の高い男性だった。襟の立った黒いシャツの、首元の真ん中から白がのぞいている。たしかローマンカラーとかいうんだっけ。たぶん教会の聖職者だと思う。この辺の情報に詳しそうな人といったら、あの人を置いていない気がする。
「あの、ちょっといいですか」
私たちが声をかけると、彼は「はい、なんでしょう」と、穏やかそうな笑顔を返した。
「この辺りでよく鳩のえさを売っている人のこと、ご存知ですか」
「ああ、あのおばあちゃんね」
私の問いに、すぐに思い当たったように声をあげたけれど、彼は、続けて言った。
「困るんですよね。ああいう人がうろうろしてると、怖くて教会に来づらいっていう人がいるから」
私たちは顔を見合わせた。鳩のえさを売っているお年寄りの、一体何が怖いというんだろう。塔子がひるまず続ける。
「最近姿が見えないようなんですが」
「ああ、そうだったかもしれないな。それなら安心なんだけどね」
それ以上何かを聞ける予感もしなかったし、聞く気もそがれて、私たちはぼそぼそとお礼を言いながら教会を後にする。携帯で時間を見ようとちょっと立ち止まった時、「おや」と背後から声がかかった。振り返ると、さっきの神父だか牧師だかが、私を見ている。
「君だけピアスをしてないんだね」
戸惑いながら、無言で会釈した。エプロンの女性と私とに、交互に話しかけるように彼は言う。
「この辺の子はみんなすぐピアス開けちゃうでしょ。ピアス屋なんてあるから、誘惑に負けても仕方ないかね。君は負けなくて感心だね」
よくわからないけれど、すごく的外れなジャッジをされている気がした。なんだかとても、嫌な感じ。
「亜莉夢行こう」
先に行ったと思っていた塔子が戻ってきて、私の手を引いた。
教会前の広場には、小さな噴水があり、私たちはひとまずそのへりに腰かけた。
「ま、そう簡単に手掛かりが見つかるわけないか」
菜津が気楽な調子で言う。
「他の方法を考えた方がいいのかもね」
霧香はグーにした両手の上にあごを乗せている。もう辺りは暗くなり始めていた。
「ちょっとあなたたち」
顔を上げると、教会にいた、エプロンをしていた女性だった。今はもうエプロンは外していたけれど、特徴的な丸い顔と丸い鼻で、さっきの人だとわかった。
「神父さんがああいう感じだったから、さっき言えなかったんだけどね」
「神父」でいいのか、とひとり答え合わせしてしまう。
「私あの教会でまかないをやってて、あのおばあちゃんのことはよく見かけるんだけど、陽が落ちるといつもロープウェーの方に向かって帰っていくの。他の信者さんから、ロープウェーに乗ってるのを見たって聞いたこともあるよ」
私たちは、皆で顔を見合わせた。「ありがとうございます!」と思わず大きな声が出た。
ロープウェーのふもと駅は、私たち以外に誰もいなかった。休日に近所の家族連れがちらほら遊びに来たりはするけれど、観光地というほどではない場所。平日は閑散としている。
片道100円、往復200円の切符をそれぞれ券売機で買って、鳩ケ谷さんも毎回この200円をどうにか工面していたのだろうかと考えた。2、3分で山頂駅にたどりついてしまう、小さな山のロープウェー。中に椅子はなくて、四方にパイプ状の手すりが巡らされている。4人で乗る小さな箱の中で、塔子が不意に口を開く。
「私は子どもかな」
どういう意味か測りかねて、私は塔子の横顔を見つめる。
「さっき、教会のまかないさんが言っていたよね」
塔子は回顧する
『私もあのおばあちゃんのこと、気になってはいたのよ。信者さんの中に支援活動とかしてる人もいるけど、ああいった、支援が必要かどうかわからない方への声掛けが一番難しいらしくてね。うちの神父さんはそういうことには全然だし……』
「大人はさ」
塔子はロープウェーが向かっていく山頂の方を見ている。
「すぐに線を引くのはなんでだろうと思ってたんだ。だけど、さがのママも、エニシさんも、鳩ケ谷さんのプライドとかいろいろ考えて線を引いてるのかもしれないね。私はそれを勝手に破ろうとしてるのかもしれない」
驚いてしまった。いつだって塔子は正しくて、自信があって、迷うことなどないように思っていた。迷わない人間なんていないことは、頭ではわかっているはずなのに。塔子に返す言葉を何も思いつけず、沈黙してしまう。以前の私だったら、どうだったのだろう。塔子のこんな一面も、知っていたのだろうか。
山頂駅は、展望台の建物の内部に直結していた。一階には小さな売店だけがあり、二階に続く階段の頭上に、「展望台はこちら」と大きな看板がかかっている。降車案内をした男性が、そのまま売店のレジカウンターにやってきて座った。どうやら山頂のスタッフは、ロープウェーも展望台も彼一人で掛け持ちしているようだ。青いスタッフジャンパーを着ていて、白髪を染めていないグレーヘアだけれど、顔は4、50代くらいに見える。
「あの」
声をかけたのは、塔子だった。
「この展望台に、鳩ケ谷さんという方がよく来ていたようなんですが、知っていますか」
男性は手元のタブレットとに落としていた目を上げた。少しの間、私たちの顔を観察するように見てから、口を開く。
「お知り合いですか」
──そう聞かれれば、否と言うしかない。私たちは誰も鳩ケ谷さんと直接関わりを持ったことがない。
「いえ、私たちは知り合いではありません。ふもとのカフェのエニシさんが最近姿を見ないと心配していたので、探しに来ました」
塔子が答えると、彼はもう一度私たちの顔をじっと見た。
「それでは、どうしたら確認できますかね。あなたたちが信頼できると」
塔子が珍しく言葉に詰まってしばし沈黙する。しかし、気を取り直したように顔を上げると、言った。
「やっぱり、私たちだけで来たのは間違いでした。帰ります」
私は驚いて塔子の顔を見た。塔子はいつものきっぱりとした口調よりも少しゆっくりと、自分自身に確かめるように話す。
「……私は今まで、鳩のえさを売っている鳩ケ谷さんを見ても、助けが必要な人かもしれないと考えたことはなかったし、エニシさんや、さがのママのように声をかけたこともなかった。それに、ホームレスの人に悪意を持って攻撃する人間や、拒絶する人間がいることすら知らなかった。……ここに来るべきは私たちじゃなかったと思います」
一礼してロープウェーに向かおうとする塔子に、私たちはただついていく。その時、背後から声がした。
「ちょっと、お待ちなさい」
振り返ってすぐには、どこから声が聞こえたのかわからなかった。二階に続く階段のその隣、地下への階段の「関係者以外立ち入り禁止」と鎖が張られている向こう側に、その人は立っていた。
鳩ケ谷さんだ、と一目見て思った。小さなおばあさんだけれど、背筋がぴんと伸びている人だ。全体に黒っぽい、ストールを何枚も重ねたような服を着ている。
「私に会いに来てくだすったんでしょう」
細いけれど、はっきりしとした声で、その人は言った。
「可愛いお客様たち。歓迎するわ」
鳩ケ谷さんは、私たちを地下へ──彼女の住まいへ、案内すると言った。レジカウンターの男性も、一緒に行くと言って立つ。その人を鳩ヶ谷さんは手のひらで差し示す。
「ここには、こちらのホリカワさんのご厚意で住まわせてもらっているの」
地下への階段を降りながら、鳩ケ谷さんは私たちに語った。
「ここは市の施設だから本当はいてはいけないんだけれど、ホリカワさん以外に職員は誰も来ないからって秘密で置いてくれて、冬はストーブや毛布も持ってきてくれるし……」
弱々しい人を想像していたわけではなかったけれど、話だけで誰かのことを聞くのと、その人に実際会うのとでは、受け取るエネルギーが全然違う。鳩ケ谷さんの声や佇まいは凛としていて、生気が感じられた。
「それに、あの子のために、ホリカワさんがケージやら何やら全部用意してくれてね」
地下に降り着いた時、鳩ケ谷さんはそう言って、視線を部屋の奥に向けた。地下は仕切りの無い一つの空間で、片側の壁に据え付けられた棚は、備品置き場のようだった。その奥に、鳩ケ谷さんの寝床と思しきベッドマットと布団がきれいに畳んで置いてある。そして寝床の少し手前、棚とは反対側の壁の方に、四角い格子状のケージがあった。中には青いインコがちょんちょんと飛び跳ねている。
「迷子みたいでね。こんな山で、ペットだった子は生きていけないでしょう。ちょっとくちばしの近くを怪我していたんだけれど、手当てして今はだいぶ良くなったの」
私は、鳩ケ谷さんを見つめる。
「最近、ふもとに降りて来なかったのは、この子のお世話のためですか?」
鳩ケ谷さんは微笑んで私を見た。
「怪我もしていたし、急なことだったからいろいろ忙しくてね。飼い主さんを探すのは、ホリカワさんがやってくれているのだけれど」
「そのことなんですが」
それまでほとんど黙っていたホリカワさんが、不意に口を開いた。
「……つい先ほど、飼い主だという方からメールが届いたんです」
ホリカワさんは、なぜか困ったような顔をしていた。鳩ケ谷さんはしばらく口をあんぐり開けて沈黙した後、「ああ、そうなの、そうなの」と呟く。
「過去に家で撮ったという写真も送ってくれて、どうやらこの子に間違いないと思いますが、後で鳩ケ谷さんも確認してもらえますか」
鳩ケ谷さんはその言葉に、一つひとつ、うんうん、と頷く。
「ええ、そうね……でもきっとホリカワさんが間違いないというのだから、そうなのね」
私も──そしてこの場にいる誰もがきっと、気付いていた。鳩ケ谷さんにとって、この子との別れがとてもつらいものなのだということに。この青い鳥、怪我をした小さな生き物を、彼女はどれほど深く愛したのだろう。
「……私、お祈りするわ」
突然、鳩ケ谷さんは言った。
「この子がこの先ずっと、飼い主さんの元で幸せに暮らせるようにお祈りします」
鳩ケ谷さんは、本当にその場にひざまずいて、手を組み、目を閉じた。どんな神仏に向かってかはわからない。ただ、心からの祈りだということはわかった。私たちはどうしたらいいか戸惑う。立って取り囲んでいるのは気まずいけれど、一緒にひざまずくのはわざとらしすぎる。ただまごまごと、祈る鳩ケ谷さんを見守るしかなかった。
「美しかったな」
帰りのロープウェーの中で、塔子がぽつりと言った。私はすぐに、鳩ケ谷さんが祈っていた時のことだとわかった。塔子はきっとあの場面をスケッチブックの中に描くのだろう。
ロープウェーの窓から、茉莉花野町の灯りが見える。その向こうには、暗い海の表面を灯台のライトが回転しながらかすめていく。
「塔子」
私が名を呼ぶと、塔子は首を少し傾けて私を見た。
「大人だってたまには……子どもが大人の引いた線を知らずに飛び越えてしまった時、困惑しつつも内心は、『やってくれてラッキー』と思ってること、あるんじゃないかな」
塔子はしばしきょとんとした後、唇をとがらせて、あごを上向かせる妙な表情をする。
「そりゃー、ちょっと癪だな」
私は思わずふふ、と笑う。霧香が私の肩に頬を寄せてくる。
「やっぱり亜莉夢って、けっこう面白いこと言うよね」
「思ってたより実は悪いよね~」
菜津も塔子の向こう側から顔を近づけて、私と塔子が2人にぎゅっと挟まれる形になる。
「前は私、こういう話はしなかった?」
霧香と菜津は「あー……」と考える顔をする。
「以前から、亜莉夢は面白かったよ」
塔子が私の肩を抱きながら言った。
「だけど、いつも数分しか会えなかったからね。ずっと一緒に過ごせるようになって、今は前より、もっと面白い」
……それは、私の記憶にはない、みんなと私の思い出だ。
*
解離性健忘。
よくドラマや漫画で「記憶喪失」と呼ばれる症状は、いくつかの診断名に分かれるそうだけれど、私の場合はそういう病名だった。ストレスやトラウマによって引き起こされる記憶障害だと、医師から説明された。
病院のベッドで目覚めた時、自分がどこにいるのか、なぜここにいるのかわからなかった。今考えるとおかしいけれど、寝過ごした時のように、一体何時から何時まで寝てしまったのか、何かやるべきことをすっぽかしてしまったんじゃないかと慌てた。
気付いてやってきた看護師さんが、状況が分かっていない私に、「あなたは学校で倒れたんですよ」と伝える。「授業中にですか?」と聞き返す。看護師さんは冷静な声で「ちょっと待っていてください」と言い置き、医師を呼びに行った。
最初は、一番最近の記憶を聞かれた。けれどどうしても、何が一番最近なのか、頭にもやがかかったようでよくわからなかった。それから、私自身の情報について聞かれた。そんなバカな、記憶喪失でもあるまいし、と思いながら、一つひとつ答えていく。
名前は、木下亜莉夢。
茉莉花野町にある希望学園に、中等科から入学した。そして……たぶん、高等科に上がったはずだ。そうだ、高校の入学式は覚えている。
家族はいない。母は生きているそうだけれど、ずっと入院していて何年も会っておらず、児童養護施設で育った。
希望学園には、特別奨学生として入った。大学院までの学費をすべて免除される代わりに、国内トップレベルの学業成績を維持し、学園の看板役を担う生徒。学生生活のすべてを学業と学園のイメージアップのために捧げなければならないため、十数年に一人くらいしか、この枠を利用する生徒は入学しないと聞いた。たいていは、私のようなわけありの生徒だ。
聞かれた質問にすべて答えたのち、医師と看護師たちは、私に休むように言った。
私の頭から約2年間の記憶が抜け落ちていると知らされたのは、それから数時間後のことだ。
失った記憶は、高校一年の春から高校三年の春まで。私の知らない私が、その2年間を生きていたのだという。
塔子が現れたのは、目覚めてから3日後だった。失われた2年間のうちにできた友達だということは、すでに他の人から聞いていたけれど、にわかには信じ難かった。
遠峰谷塔子──財界のトップともいわれる遠峰谷グループ代表取締役の一人娘。お金持ちの子どもばかり通う希望学園でも、特に名の知られている大富豪だ。けれど、私と塔子が友達だと信じられなかった理由はそれだけではない。
特別奨学生としてこの学園に入るということは、「学園の看板役」としての私の立場を全校生徒が知るということだ。どんなリスクを背負ってでも奨学金をもらいたい事情があることも、他の生徒とは違う扱いを受けていることも、周知の事実となる。ほとんどの生徒は、私を異質なものとして見て、警戒、侮蔑、嫉妬、さまざまな理由で距離を置く。この学園で私に友達ができることなどありえないと思っていた。
それに、もっと単純な理由として、塔子は私より2歳年下なのだ。つまり私が記憶を失った高一からの2年間は、彼女はまだ中等科。茉莉花野の森を隔てて校舎が分かれている高等科と中等科で、どうやって接点を持ったのか謎だ。
「東屋で」
と、塔子は言った。私はわけがわからず首を傾げる。
「亜莉夢が勉強しているのを見つけたんだ。美しかった」
塔子が語った私たちの思い出は、次のようだった。
──私と2人の幼馴染みは、放課後よく茉莉花野の森を探検してたんだ。その日は気まぐれに、高等科の近くまで行ってみることにした。
高等科から森に入ったすぐのところに東屋があって、そこで亜莉夢が一人で勉強してた。
森の奥から突然出てきた私たちと目があって、亜莉夢は驚いてたよ。
『勉強の邪魔してすみません』って謝ったら、『まあ、あまり集中できていなかったから』って亜莉夢が答えて。それから少し話をした。
でも亜莉夢は、その日も学術大会か学園のアピールか何かで、すぐに行かなきゃならなかった。私はまた亜莉夢に会いたいと思って、次の日もその東屋に行ったんだ。そしたら、亜莉夢もまたそこにいてくれた。
それから私たちは毎日東屋に行った。会える日も会えない日もあったし、会えても数分しか一緒にいられなかったけど、亜莉夢も私たちに会うためにここに来ようと思ってくれてるのはわかった。
連絡先は交換しなかった。亜莉夢の携帯は学園から支給されて、通信内容も全部学園に把握されてる。遠峰谷家の人間とのつながりが分かったら、妙な疑いをかけられるだろうと思ったんだ。でも私たちはずっと、亜莉夢のことを大切な友達と思っていたよ──
翌日には、塔子は東屋で会っていたという他の2人……奥原菜津と陶乃霧香を連れて来た。
菜津は、大手食品会社の社長令嬢で、本人も食に対するこだわりが強いB級グルメマニア。小さな目はいつも、何を考えているのかわからない飄々とした笑みを作っている。霧香の両親はアパレルブランド経営者で、猫っぽいベビーフェイスとすらっとした長身を併せ持ち、自身もティーン雑誌のモデルをしている。だけど本人の性格は控えめで、仕草や言葉は3人の中で最もフェミニンだ。
──これが、私にはあまりにも似つかわしくない、〈失われた記憶の私〉の友人たちだった。
*
「あのさ」
ロープウェーがもうすぐでふもと駅にたどり着く時、私は口を開いた。
「私、ピアスの穴を開けようと思う」
塔子はただ小さく微笑んで、
「いいね」
と言った。
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