保釈金300万円

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「おつかれ〜っす」  軽い調子で声を掛けると、振り向いたトモキは箸で卵焼きを摘んだ格好のまま固まった。  板金工場の隅に設けられた簡易な休憩スペース。  青いつなぎ姿のトモキは、年嵩の作業員達と並んで弁当を広げ、油で黒ずんだ手に箸を握っている。  限界まで見開かれた一重瞼の目には、両手をズボンのポケットに突っ込んで立つ、猫背の若い男の姿が映っている。 「は? ユウヤ? お前、保釈されたん? いつ?」 「今朝よ、今朝。さっき帰ってきたとこ」  トモキの矢継ぎ早の質問に、ニヤリと笑って答えた。  その身体が小刻みに揺れているのは、肌寒さだけでなく高揚感ゆえでもある。  隣市の拘置所まで迎えに来てくれた祖母と一緒にアパートに帰り着いたのは、つい先ほどのことだ。荷物を置いて着替えるやいなや、ユウヤはアパートを飛び出し、トモキの働く板金工場にやってきたのだった。  ゴトンと自動販売機が音を立てる。 「ユウヤはコーラじゃろ?」 「おう、サンキュ」  三分で弁当の残りを片づけたトモキは、近くの自動販売機にユウヤを誘った。  取り出した缶をユウヤに手渡したトモキは、今度は缶コーヒーのボタンを押した。 「コーラじゃないんじゃな」 「最近、昼飯の後はこれに決めとるんよ」 「へぇ……旨いん?」 「うん、まぁ、癖みたいなもん」  敷地のはずれ、他の従業員から離れた場所までユウヤを連れて行くと、トモキは日当たりのいい場所を選んでコンクリートの地面に胡座をかいた。  トモキにならって腰を下ろし、ユウヤはプルタブに指をかける。プシッという軽快な音。三ヵ月ぶりの爽快感が勢いよく喉を滑り落ちていく。  隣で同じく缶を傾けていたトモキが、飲み口から口を離してユウヤに目をやった。 「いやでもマジでビビったわ。よう保釈通ったな」 「俺ももう無理じゃ思うとった」 「実刑確実でも、保釈されることってあるんじゃなぁ」  ユウヤは違法薬物の密売で捕まり、刑事裁判の真っ最中だ。  一年前にもクスリで捕まって裁判になり、執行猶予中の身だったから、今度は間違いなく刑務所に行くことになる。 「でもそしたら、保釈金高かったんじゃないん?」 「三百万じゃって」 「うわ、マジか。ばぁちゃん、よう金出してくれたな」 「ほんまよな」  どこか他人事のように言って、ユウヤはもう一口コーラを飲んだ。しばらく飲むことはできないと思っていただけに、痺れるような刺激が沁みた。  ユウヤにとって家族と呼べる人間は、父方の祖母しかいない。  母親は赤ちゃんの時に家を出て行ったきり顔も知らないし、父親はヤクザで、物心ついたときから刑務所を出たり入ったりしている。今も刑務所の中だ。  兄弟はいない。正確には腹違いの弟がいるらしいが、一度も会ったことはないし兄弟と思ったこともなかった。  そんな家庭環境の中で、祖母は幼い頃からユウヤの母親代わりだった。ユウヤも当然のように祖母を頼った。  逮捕されるまでユウヤは祖母と二人で暮らしていたし、逮捕されてからも祖母はまめに衣服を差し入れてくれた。  起訴されて保釈の制度が使えるようになるとすぐに、ユウヤは拘置所から祖母に宛てて、保釈に協力して欲しいと手紙を出した。  裁判所に保釈を許可してもらうには、身元引受人と保釈金が要る。  ところが、祖母から期待した返事はなかった。 『八十歳をとうに超えて、膝も心臓も悪くしています。申し訳ないけれど、ユウ君を監督するだなんて重い責任は負えません。それに、保釈には何百万円もかかると聞きました。そんな大金はとてもじゃないけど準備できません』  美しい筆跡で言い訳が書き連ねられた手紙を、ユウヤはぐしゃりと握り潰した。  諦めきれず、何度も手紙を出した。  あるときは、『ばぁちゃんの歳を考えたら、これが最後になるかもしれん』と情に訴えた。  またあるときは、『協力してくれんかったら一生許さんけぇな』と脅しをかけた。  それでも祖母の答えは変わらなかった。  腹が立ったが、一方で、仕方ないと思う気持ちもあった。  五回に及ぶ逮捕、鑑別所、少年院、そして前回の裁判。十代の頃から祖母に散々迷惑をかけてきたという自覚が、全くないわけでもなかったから。  裁判が進み、あとは判決の言渡しを残すのみとなる頃には、ユウヤはもう保釈についてはすっかり諦めていた。  だから今朝、拘置所の職員から「保釈だ。出ろ」と言われたときには、嬉しいよりも信じられない気持ちが先にきた。  拘置所の待合室で杖を頼りに立つ小さな祖母の姿を見てようやく、外に出られたのだと実感した。ありがたさで涙が滲んだ。  夏の終わりに捕まり、はや三ヵ月。久しぶりに吸い込む外の空気は、ひやりと冬の匂いを纏っていた。  私物が乱雑に詰め込まれた大きなポリ袋を抱え、季節外れのサンダルを履いて、膝の悪い祖母を精一杯支えながら、電車とバスを乗り継いで古びたアパートに帰り着いたのは昼前だった。  「友達に会っておいで」という祖母の言葉に甘え、ユウヤはアパートを飛び出してトモキに会いに来たのだった。 「そんで、判決はいつなん?」 「明日の十一時よ」 「えっ、明日!?」  トモキが声を裏返した。 「実刑が決まったら、すぐまた捕まるん?」 「うん、拘置所の奴らが裁判所に迎えに来てそのまま連れて行かれるんじゃって。弁護士が言うとったわ」 「マジか……。それじゃ、一日しかないじゃん。たった一日のために三百万かぁ。ばぁちゃんスゲーな……」  トモキは感心したような呆れたような調子で言って、長い息を吐き出した。  コーヒーとタバコの入り混じったほんのり苦い香りが鼻をくすぐる。ユウヤの知らない、トモキの匂いだった。 「よっしゃ」  トモキはパンと手を打ち鳴らすと、弾むように勢いをつけて立ち上がった。 「そんじゃ、今日はユウヤの壮行会じゃな。仕事、五時には終わるけぇ、六時に駅前の居酒屋予約しとく。今日は俺のおごりじゃ。美味いもん食おうや。皆にも声かけとくわ」 「頼むわ。俺今、スマホも使えんけぇさ」 「おう、任せぇ。じゃ俺仕事戻るけぇ、また後でな」  ユウヤも立ち上がり、残ったコーラを一気に飲み干した。この先何年もこの味とお別れかと思うと、腹の底で何かがシュワシュワと疼く感覚があった。 「ユウヤ」  顔を上げると、まっすぐにこちらを見るトモキと目が合った。 「お前さ、妙なこと考えんなよ」 「……妙なことって」 「ばぁちゃん裏切んなよってこと」  腹の底の泡を見透かされたような気がして、思わず臍に手の平を当てた。  逃げるなよ、とトモキは言っているのだ。  祖母が裁判所に納めた三百万円の保釈金。これは明日ユウヤがきちんと裁判所に出頭して判決を受ければ、数日後にはそっくりそのまま返ってくる金だ。けれどもし、ユウヤが裁判から逃げたなら、全て没収され祖母には一円も戻らない。  「……んなわけねーじゃん」  絞り出した声は少しだけ掠れていた。 「俺もそこまでクズじゃねーし」  取り繕うように言葉を重ねると、トモキは「うん」と頷いた。 「じゃあまた後で。ばぁちゃんに貰った特別な一日、大事に過ごせよ」  小走りで作業員仲間達のもとに戻っていくトモキの背中を見送り、ユウヤはコーラの空き缶を側溝に投げ捨てた。
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