やさしい風の吹いた日

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 朝起きて、色あせた半袖の作業着に着替え、顔を洗う。  今日もローテーション作業が始まる。高校を卒業し実家の寂れた電気屋を継いで4年。継ぎたくて継いだわけでもなく、行くあてもなく継いだ家業。昨年、おとんが亡くなってからは、年々減る仕事の中、唯一残ったエアコンを設置する仕事を、ただただこなしていた。  ただ、この日は朝から、おかんの様子がちょっとおかしかった。リビングに行くと、おかんがすごい勢いで手招きしてくる。  「優成(ゆうせい)、優成。ちょっと聞いて。お母さん、ものごっつい夢見たんや」  「あ、そう」  興味なし。  俺、もう22やで。何でおかんの夢なんかワクワクして聞かなあかんねん。俺は、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すとコップに注いで、ゴクゴクと飲んだ。そんな俺にお構いなく、おかんが真剣な眼差しで話しかけてくる。  「えらいこっちゃ」  ……知らんがな。  「お母さん、富士山に登っとったんや。そしたら、お日様がパーって登ってきてな。パッと上を見ると鷹の大群が空を乱舞、足元を見るとでっかい茄子の乗り物に乗っとってん。ほら、お盆のあれやあれ。あの牛の様な茄子の乗り物でドッスンドッスン、富士山をのぼっとったんや」  プッとオレンジジュースを思わず吹き出してしまった。  おかんはゴクッと唾を飲み込んだ。  「ほら、一富士、二鷹、三茄子っていうやん」  「それ、お正月やろ。今、夏真っ盛りやで」  セミの声が聞こえるリビングで真面目な顔で真剣に話しをするおかん。  「なんか、ええことあるんちゃうか? 吉兆の兆しや」  「あ、そう」  「あんた、ちょっとお母さんに手を合わせて拝んどき……正夢になったらどないしよ!」  「……死ぬで」  「えっ?」  「茄子の牛車なんか乗ってったら、あの世行ってまうで」  「……ハァッ、そやな」    おかんはしばらく真剣に悩んでいた。   あほかいな。何が吉兆の兆しや。だいたい俺はそんなん信じへん。  人生においてあまり幸運に恵まれなかった俺は、悪い事があるとその分、幸運のストックが貯まったと考えることにして、心の釣り合いを取っている。そんな偏屈な考えから、逆にちょっとでもいい事があると、素直に喜べへんかった。おかん、もう今日の運気を全て使ってもうたんちゃうやろか。  俺はそんな事を考えながら、軽トラックにエアコンの室外機を乗せた。滴り落ちる汗を拭って見上げると、お店の上には塗装の剥げた看板。「困った時の電気屋:藤江電気」の文字。……困ってんのはこっちや、エアコン設置の仕事をこなす毎日。もう22やで。いやまだ22というべきか。同年代の奴らは大学で青春真っ只中。  そんやのに、俺は……   これからの人生、このローテーションをただただ繰り返す毎日になるんか?  看板の下には毎年、燕が巣をつくる。これも幸運を呼ぶって言うけれど。  「感謝しろよ。毎年、家貸してやってんねんからな」  燕がスーッと飛んできて、頭にポトっと、でっかい雨粒が。  いや……  外はええ天気、そしてこの雨ちょっとベットっとしとるで。入り口のガラス戸で自分の頭を見てみると、鳥の糞が髪の毛にべっとりついていた。やるせなくなって、「なんでやねん」と燕に突っ込んでみる。燕はまた、静かにスーと飛びさって行った。  「おい、つっこみ返せ!」  洗面所で髪についた糞を取って水で洗い流しながら、せめて誰か笑ってくれたらええのになと思う。はぁー、何が吉兆の兆しや。鏡に写った覇気のない自分の顔を見て憂鬱になる。  そう、その日、そんな俺を待っていたもの。
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