やさしい風の吹いた日

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 軽トラックの助手席に今日の作業指示書と、エアコンにおまけで付いてきたハンドタオル、そして「水滴を模したゆるキャラのぬいぐるみ」を放り投げた。ゆるキャラの微妙な笑顔が、こんなむさい俺の心も和ませてくれる。あとで、ダッシュボードに置いてやるか。  そのダッシュボードには古びた名刺入れが転がり、中には俺が家業を継ぐときに、おとんが嬉しそうに作ってきた名刺が、1枚も使われずに入っている。  「困った時の電気屋:藤江電気 みんなにこれを渡すんやで」  名刺入れを見るたびに、そう言ってた、おとんの言葉が頭に浮かぶ。  住宅街の外れ。寂れた2階建アパートの前に到着する。外階段の手すりの塗装は剥げ、サビが地面にまで溶け出していた。廊下に気持ち程度の雨除けはついているが、廊下に剥き出しの扉は雨風にあたり色あせ不思議なグラデーションを作っている。  はぁー。とため息が出る。こういう古い物件は、壁も脆いことが多くエアコンを取り付けるときに難儀する事が多いのだ。まさか、土壁じゃないよな。 ハハ……  そんな事を思いながら、俺は養生用の毛布を持って階段を上がり作業する部屋を確認した。205号室。角部屋。たしかパイプスペースに合鍵が入っているって言ってたな。しゃがみながら、扉の横にあるパイプスペースを開け、キーボックスをゴソゴソと探す。  あれ、ない?  その時、205号室の玄関扉がガチャっと開き「お兄さん、エアコンの人?」と声をかけられた。見ると、ヘアバンドで髪を纏めた女性がヒョコッと顔を出している。スッと整った顔立ちの綺麗な人や。若そうやけど、年齢不詳。なんて思ってたら、目があい気まずくなって下を向く。  「ええ、エアコンを取り付けに。あの、確かまだ空き部屋だって聞いてたんですが」  「ごめんごめん、ちょっと急遽、入居を早めてもらって。あ、大家さんから連絡いってなかった?」  「ええ」  「ごめんね」  「いえ」  俺はパイプスペースをそっと閉めて立ち上がった。扉の前に出てきた彼女は、Tシャツにスエットパンツというラフな格好をしていた。そして、お腹が大きかった。
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