白い壁

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「訳がわからないって顔してるわね」 そう言うと、女性はにわかに形相が変わり、まるで憂いを帯びた殻の中から、奥に潜めた(ほのお)を今か今かと待ちわびていたかのごとく、僕の霧のかかっていた喪失を突き刺した。 「思い出したみたいね。うれしいわ。そうよ、私はあの時乗り合わせた子どもの母親よ。あなたがバスを降りて走り出したすぐあとだったわ。いきなり飛び出してきた自転車を避けようとして、バスが急停車した。 その時、あなたからもらった飴が息子の口から飛び出して、前の人の服に当たったのよ。その人は逆上して息子は刺された。そんなことくらいで。許せない……」 僕の顔はいびつなほどにしわが寄り、身体は硬直したまま、女性の動きを見ることしかできなかった。 「あなたのせいよ! 絶対に許さない!!」 鋭い眼孔を向け、心の底から突き抜ける悪魔のような地響きのする唸り声はこの女性からは、もう、正気の沙汰とは思えないほど化物と化していた。 女性は僕の身体にまたがり、先の尖った鋭利な刃物を僕の顔に向けた。 僕はもう、逃れる術が見つからなかった。 「昨日は失敗してあなたはすぐに気絶しちゃったけど、今日はそんなことはさせない。夜はこれからよ。待っててね。今すぐに、息子と同じ思いを味わわせてあげる」
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