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3.ジホ
彼はキャンパスでよく見かける顔だった。
眼鏡の奥でよく動く目が人なつっこそうで、笑顔を絶やさない。たいてい大勢の友だちに囲まれていて、思い切り楽しそうに見える。単独行動が多い私とは正反対である。だからこそ好きになったのかもしれない。
気がつけばキャンパス内で彼の姿をさがしていた。
話しかける勇気はない。学食で偶然に後ろの席に彼が座ったときは緊張して、とても食事どころではなくなった。
日本人学生とは服装が違う。加えて外国人留学生たちと一緒にいることが多いので、留学生であることは確定である。どこの国の人かはわからなかった。なんとなくの印象だが、東南アジア、とりわけシンガポールかマレーシア出身ではないかと推測していた。
たまに1人でいるところも見かけた。
たとえばバス停で帰りの便を待つ列に彼の横顔を見つけた。雨の日だった。日本人の学生たちが雑談で騒いでいる中、彼は本を読んでいた。ビニール傘を雨の滴に叩かれながら、図書館で借りたであろう分厚い本を開く。
あるいは体育館で。私はフラメンコ・サークルに所属していて、昼休みはたいてい体育館で自主練をしていた。倉庫からマットレスと全身の映る鏡を出してくる。かかとに鉄の打たれた靴を履き、フラメンコのステップを練習する。彼もよく体育館にやってきた。腕立て伏せや腹筋で、黙々と身体を鍛えている。鏡越しに彼の姿を捉えながら情熱のフラメンコを踊るという図式がなんとも笑えて好きだった。彼は私に見向きもしないけれど。
イタリア語の授業が始まる前、教室で西田くんの隣に座る。軽音部の西田くんはその日も相変わらず大きなギターケースを持ち込んでいた。
眠そうな顔で頬杖をつく西田くんの肩を叩く。
「ねえ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「あー? 何?」
「軽音部に、眼鏡の男の子がいるよね? ほら、留学生で、よく黄色のTシャツを来ている人」
西田くんと彼が、ギターを持って校庭を歩くところを目撃したばかりだった。
「ああ、ジホのことかな?」
「ジホって名前なの? どこの国の人?」
「韓国人だよ。国費の奨学生らしい」
留学生の中には、日本の奨学金をもらう留学生がいるが、ほんの一握りである。狭き門である試験を通過した精鋭だけに与えられる。
「ねえねえ、ジホってよく西洋人の女の子と一緒にいるよね?」
花柄のロングスカートを穿いた、ブロンドヘアの女の子。彼女もまた軽音部に属しているようだった。ジホが体育館で自己鍛錬しているときにも、ときどきやってくる。先日はジホと彼女とロシア人っぽい男の子と3人で、平均台に腰かけて長話をしていた。
「ブリジットだよ。フランス人の」
「ジホとブリジットって、特別な関係?」
「いや、そんなんじゃないと思うけど」
「ほんとに?」
「ジホに興味があるの? だったら紹介しようか?」
あまりの急展開にうろたえた。自分がジホと面と向かうところを想像する。ああ、何を話せばいいのか。
「ううん、紹介してくれなくていい」
「そう?」
だったらどうしたいというのだ、私は。西田くんだって対応に困るではないか。自分でも、どうしたいのか、どうすべきなのかわからない。おそらく容姿にもコミュニケーション能力にもがないのだろう。ジホが私と知り合って嬉しいと思ってもらえる自信がゼロだ。
何も動かないのだから当たり前だが、進展がない日々、ただモヤモヤと思い悩む。
大学図書館でイタリア美術の専門書のページをめくったあと、最終バスに乗り込んだ。
前方の席にたまたま、ブリジットが座っていた。
とっさにノートの端をちぎり、自分の名前をアルファベットで書く。その下に電話番号を足した。
心臓が高鳴る。呼吸も浅くなった。
ブリジットが途中で降りた。迷ったが、勢いで私も降りてしまった。
「あの-、すみません」ブリジットの背中に声を掛ける。
カールしたブロンドの髪を揺らして、ブリジットが振り向いた。日の落ちた薄闇の中でもわかる淡い緑色の瞳が私を見る。
「突然でごめんなさい。ジホって韓国人の男の子、知っていますよね?」
「ジホなら知ってるわ。同じ軽音部だから」
「これ、彼に渡してほしいんです。お願いします」
震える手でメモを差し出す。
自分の行動が信じられない。西田くんからの紹介を断った私が、なぜブリジットにこんな大胆な行動ができたのか。今となっても謎である。「衝動に駆られた」としか言いようがない。
ブリジットは笑顔になり、私の手からメモを受け取る。
「わかったわ。渡しておきますね」
「ありがとう、本当にありがとう」
ブリジットが天使に見えた瞬間である。
それから2週間ほど、ジホから電話が来るのをそわそわしながら待ち続けた。
だが、電話は来なかった。
嫌われただろうか? 迷惑だったかもしれない。
想像が悪いほうにばかり働き、キャンパス内で彼を見かけても恥ずかしくなり隠れてしまう。
塞ぎ込んでいる私の様子を察し、イタリア語科のクラスメイトであるカナコが話しかけてきた。
「ヒロミ、最近ぜんぜん元気がないね。何かあった?」
「それがさぁ」
ブリジットにメモを託したくだりから、一連の話をした。
「ああ、それでよく西田くんと内緒話をしていたんだね」
「そうなの。西田くんはジホと同じ軽音部だから情報をもらってた。でもジホに嫌われたかもしれないから、もう諦めないといけない」
「そんなの、わかんないじゃん」
カナコが息巻く。
「本人に訊いてみたらいいよ。『なんで電話をくれないんですか?』って」
「そんなの訊けるわけないやんか。迷惑やから電話をくれなかっただけやろ。もう諦めるしかないねん」
私は興奮すると大阪弁が出る。
「どうせ諦めるなら、直接に訊いてからにしなよ。任せといて。代わりに私が訊いてあげる」
後日、中庭のベンチに座るジホを発見する。カナコの袖口を引っ張って、「ほら、あの人」と知らせる。
「よしっ、行ってくる」
「ちょっと待って! 隠れて見てるから! 私が見てること、ジホに言わないでね。まだ直接にお話する覚悟ができてないから」
校庭に面した図書館は、1階のロビーがガラス張りである。ロビーから震えて様子を窺う。
カナコがゆっくりとジホに近づいていく。デスクの端をぎゅっと握り、カナコを引き戻したい衝動に耐えた。
不思議な感じだ。カナコがジホに接触しようとしている。私の中でカナコとジホは別の世界の存在で、2つの世界が結びつこうとする瞬間に見えた。
カナコがジホに話しかけた。何かを話している。私はたまらなくなり、しゃがみこんでデスクの後ろに隠れた。
電話をくれなかった理由はなんだろう。答えを訊いて傷つきたくなかった。カナコに頼んだことを後悔する。
「訊いてきたよ」
図書館に入ってきたカナコが、他の学生の読書を邪魔しないように囁く。
「理由はね……」
「ちょちょちょちょっと待って。まだ心の準備が」
カナコを引っ張って廊下に出た。
大きく深呼吸してから、「覚悟を決めるよ。教えて」と頼む。
「あのね、ジホさんは『何も知らない』って」
「……え?」
「ヒロミの電話番号、教えてもらってないらしいよ」
なんとブリジットがジホにメモを渡していなかったのだ。あんなに勇気を出して頼んだのに、ブリジットには取るに足りない用件だったのか。それともジホに気があるから渡したくなかったのか。真相はわからない。
「……あいつ」
「とにかくヒロミの電話番号、私から渡しといたから。『近いうちに連絡する』ってさ。よかったね」
「ありがとう」とカナコに抱き着く。私が犬だったら激しく尻尾を振っていただろう。
電話は本当にかかってきた。
当時は互いに携帯電話を持っていなかった。私が自宅に不在であったりジホが出られなかったりで、互いに電話をかけ合うやきもきする時間が数日にわたり続いたが、やっと繋がったときの喜びを忘れない。
「ヒロミさんですか?」はっきりとわかりやすい日本語で話す。クリームソーダみたいに爽やかな声。
「電話番号、ありがとうございます」
「ご迷惑でなかったですか?」
「いえ。でもびっくりしました。一度、大学でお話しましょうか?」
翌週の授業上がりに校庭で待ち合わせすることになった。
それからが大変である。
当日は何を着るか、何を話すか。
「私は約束の日を迎えるまでに心臓が止まって死ぬかもしれない」とカナコに八つ当たりもした。
体育館に向かう坂道で、ブリジットと対面した。日本人らしき女子学生と一緒だった。私に気づいたブリジットは、笑いながら女子学生に話しかける。話の内容はわからないが、「ジホ」の名前が聞こえた。おそらく「あの子がジホにちょっかいを掛けようとしてる子よ。電話番号を渡すように頼まれてさぁ」とでも面白おかしく噂話をしているのだろう。
もうブリジットには頼まない。私にはすでに、別ルートで取りつけたジホとの約束があるのだから。
約束の日はすぐにやってきた。
「しっかりね」カナコが私の背中をバーンと叩いた。
約束どおり、ジホは中庭のベンチで待っていた。大勢の学生たちが往来していたが、いっさいの雑音が聞こえない。
お気に入りの草色のワンピースを着て、一歩一歩、ジホに近づいていく。引き返したい臆病な心と闘いつつ。
ジホの前で足を止めた。
「ヒロミさんですか?」眼鏡の奥の目が私を捉えていた。
このときの気持ちを、25年以上経った今も鮮明に憶えている。世界中が私の味方であるような多幸感。カナコにも世界中の人たちにも感謝したい。
私たちは日が暮れるまで語り合った。
ジホは楽しそうに話をする。相手が私だからではなく、これまで観察してきた限り、誰が相手であってもジホは陽気だった。韓国の文化や日本での留学生活、兵役の体験談。
「韓国の若い男は、だいたい兵役の間に彼女に振られます。2年間の兵役は長いでしょう? その間に彼女は他の男を見つけるんです。それで振られた兵士が『振られたー、武器はどこだぁ?』って騒ぐのが恒例です」
ジホにはいくらでも話のネタがあった。
たっぷり語り合ったあと、帰りのバスに一緒に乗る。終点まで乗って、電車の改札をくぐった。
電車で隣に座り、「ジホさんは日本で何の研究をされているんですか?」と訊いてみる。
「ヒロミさんは竹島をご存じですか? 僕は竹島について調べているんですよ」
日韓での領土問題の争点である竹島。私は恋愛と芸術にばかり関心を抱き、社会問題にとことん疎いフワフワした女だったので(今でもその傾向は強いが)、恥ずかしながら竹島問題についてもよくわからなかった。
「島の名前ぐらいは知っていますけど」
私の返事を聞いたあと、ジホは竹島について語らなかった。私に語っても面白くないと判断したのかもしれない。
電車に揺られている間に突然、ジホはさりげなく、「A女子大に気になっている女の子がいる」と言い出した。
A女子大と我が校とは、電車の最寄り駅が同じだ。通学ラッシュの時間帯には、駅はA女子大と我が校の学生で溢れる。A女子大の学生たちは服装が派手で、メイクもばっちり。女の子らしく着飾る。一方、私を含めた我が校の女子たちは、国立大学特有の地味さを有する。辞書を引きながらコツコツの語学の勉強に勤しむ真面目な感じの子ばかりである。
昔、テレビで大量のヒヨコの雌雄を瞬時に見分ける仕事をする職人の特集を観たが、私もあの職人の同じスピードでA女子大の女の子と我が校の女の子を見分けられる自信があった。
ジホの「A大学の女の子が好き」との発言は、おそらく私への断りだろう。私の気持ちを察して、これ以上の深入りをしないようにとの、ジホなりの優しさ。つまりはやんわりとした拒絶であったと私は解釈した。
「ああ、そうなんだ」と澄ましたふりをして答える。さも「ジホに本気なわけではない」との口振りで。本当に私は何がしたかったのだろう。
先に降りるジホの姿を見送り、夢の時間は終わった。
以降、キャンパス内で私を見かけたときに、ジホはあいさつしてくれるようになった。認められた喜びと同時に、発展しないとわかりきった関係性は、私にとってかなり嵩の大きな苦しみでもあった。
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