1.初めてのローマ

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1.初めてのローマ

 レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港。  イタリアの誇る天才の名を冠した空港に降り立つと、花の香水の匂いがした。  国にはそれぞれ独特の匂いがある。外国人が日本に到着すると、醤油の匂いを感じると聞く。ローマには女性たちがつける香水の匂いが漂っている。  大学1年生が終わったあとの春休み。初めてのイタリアだった。  私はイタリア語を専攻していた。学費を自分で払う必要があったのと英語以外がいまいちな成績などを考え合わせ、自宅から通える国立大学で、入試科目で英語が重視される語学系の大学を選んだ結果である。外国語の中でもイタリア語にした理由は「なんとなく」。10代のころから市立図書館で画集を眺めて何時間でも過ごせる特技を持っていたが、目の留まる絵画はたいていがイタリア人画家の作品だった。静物画を描かせても内面の激しさを隠しきれないカラヴァッジョ、ユーモラスでありながらどこまでも長い影に不穏さを感じさせるジョルジョ・デ・キリコ。イタリア人画家たちの絵画を眺めながら、「イタリア人とは気が合うかもしれない」との将来設計のかけらもない安易な思考でイタリア語科への進学を決めた。  入ってみて、本当にびっくりした。  奇才イタロ・カルヴィーノをはじめとするイタリア文学のユニークな発想、会話の授業を担当するイタリア人の先生たちの個性。シチリア島出身の女性講師にいたっては、それまでの人生で出会ったことのないタイプだった。見事なオレンジ色の髪をアップにし、三角のめがねの脇でゴールドの鎖が揺れていた。すべての単語を大文字で書くダイナミックさ。筆圧が強いので、先生が板書をするたびにチョークの破片が飛び散る。  イタリア語の持つ音の美しさにも圧倒された。さすがはオペラが発展を遂げた国だけはある。一つ一つの言葉が歌のようだ。  それぞれの語科には共同研究室があてがわれていた。研究室といっても実情は、学生たちが集まって雑談に利用する部屋である。ここがまたカオスな空間である。誰も掃除をしないから埃とチョークの粉だらけ。甲冑とファシスト党の帽子が飾ってあった。歴代の先輩たちの中にはムッソリーニに傾倒した者がいたのだろう。研究費を利用して教授がイタリアのニュース紙を定期購読していたが、自分の研究室には置くスペースがないためか、すべて共同研究室に押し込んでいた。何十年も前の分からニュース紙が本棚でぐしゃぐしゃになっている。  大学生になってから、私の世界はすっかり変わってしまった。  イタリア語を専攻するならば、一度ぐらいはイタリアに行っておきたい。どうせ行くなら短期留学したいとの欲が出た。結果、アルバイトを4つも掛け持ちして留学費用を捻出することに。  早朝から歓楽街の定食屋の店員としてホストとキャバ嬢を相手に朝定食を出す、昼間はホルスタイン牛柄のエプロンを着せられてスーパーでの牛乳の試飲販売、休日は博物館で受付、夜は食品工場。こうして手に入れたローマ行きの航空券である。  新しい世界に飛び込む興奮と、おぼつかないイタリア語では心細さがちょうど半々。  当たり前だが、イタリア語に満ちた世界に興奮する。人々の話す言葉も、空港内の広告もイタリア語。本当にイタリアに来たと実感した。  空港から鉄道でローマ市街へ。  ローマの駅周辺は、中東系の人々のコミュニティがある。アラビア文字が並ぶ看板を掲げた店がつらなり、想像していた「ザ・イタリア」といった様相とはずいぶんと違っていた。  ホームステイ先は決まっていた。旅立つ前にインターネットで住所検索し、観光ガイドブックの付録の地図に丸印をつけてあった。ここらへんが私のいい加減なところであるが、観光用の地図には細かい道の名前は書かれていない。ホームステイ先までは歩ける距離ではなさそうだが、どの交通手段でどうやってたどり着けばよいのかわからなかった。  鉄道駅の近くのバス停の前でうろうろしていると、心細くて泣きたくなった。  話を聞いてくれそうな年配夫婦に声を掛け、地図の丸印を指差す。 「ここに行きたいんですけど」と、おずおずと話しかける。  二人は地図を覗き込む。  シニョーレ(大人の男性をイタリアでは「シニョーレ」と呼ぶ。名前がわからないので、ここでは「シニョーレ」と呼んでおきたい)が「ああ、ここなら知ってるねえ」と。続いて具体的な行き方を説明してくれたみたいだが、さっぱり聴き取れなかった。  妻に向かって「このシニョリーナ(お嬢さん)を連れていくことにするよ」と(たぶん)告げる。2人は見つめ合って熱いキスを交わした。ああ、やはりアモーレの国イタリアだ。  夫は私を連れてバスに乗り込んだ。窓の外で妻がいつまでも手を降っている。その後ろで鳩が舞った。  日本でガイドブックを熟読していた私は、バスを乗るにはカルネと呼ばれる回数券を事前に買っておく必要があると知っていた。シニョーレに「私、カルネを持っていませんよ」と告げる。 「なんだって? 持ってないの?」とシニョーレが目を剥く。小声で「まぁ気にしなくていいよ。次に乗るときに渡せばいいからさ」と囁き、ウインクした。マジか。  実際のところ、シニョーレにくっついて降りたら無銭乗車を咎められることはなかった。イタリア到着初日にうっかり軽犯罪に手を染めてしまったわけだが、細かいことを気にしない国民性で助かった。  静かな住宅街を少し歩き、無事にアパートに到着した。  シニョーレにお礼を言って別れる。共同入り口の呼び鈴を鳴らした。  しばらくして、黒髪の女の子が顔を出した。 「あなたがヒロミね? いらっしゃい。待ってたわよ。さあ入って」 「ピアチェーレ(はじめまして)」と、大学の初級イタリア語講座で習ったとおりのイタリア語であいさつする。  背中のバックパックの重みを膝に感じながら、女の子について階段をあがる。  部屋は3階だ。日本で言うところの4階にあたる。  ヨーロッパの多くの国々と日本では、建物の階数の数え方が違う。日本の1階は、イタリア語で地上階(ピアーノ・テッラ)。2階が1階(プリモ・ピアーノ)である。  三姉妹が住んでいた。  大人しくて知的な長女、おっとりした印象の三女。私を出迎えてくれたパオラは次女で、私より1つ上の大学生だった。いかにもしっかり者の世話好きという感じがする。  どうも一緒に住んでいるのは三姉妹だけらしい。両親と離れて暮らす理由は、私のイタリア語スキルでは聞き出すのは無理である。  初めてのホームステイ、うまくやっていけるだろうか。  感じよくしたいのに、第一日目から失敗した。  入浴のときにバスタブの外でシャワーを浴びて、風呂場を水浸しにした。日本ではバスタブの外の洗い場に排水溝があるが、イタリアにはない。イタリア人はバスタブの中でしかシャワーを使わないらしい。  シャワーの水でひたひたになった浴室を見て、パオラは「気にしないで。私たちが拭いておくから休んで」と言ってくれたが、なんだか情けなくてちょっと泣いた。 『大丈夫。泣かなくていいわよ」とパオラが優しくなだめてくれると余計に悲しくなり、部屋に与えられた部屋に引きこもってめそめそと泣き続けた。  今思えば雑巾を借りて自分で片づけるべきだったのだが、動揺して泣くことしかできなかった。  しんどい。もともとコミュニケーションが苦手なうえに、イタリア語がすらすらと出てこないから余計に難しかった。先が思いやられる。
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