5.ナポリ旅行

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5.ナポリ旅行

 ローマの街は、2週間後に訪れる復活祭を祝う空気に満ちていた。  英語だとイースター、イタリア語だとパスクワ。  日本ではあまり馴染みのないイベントだが、ローマ・カトリックの国であるイタリアでは春の大イベントである。ショーウィンドウに装飾用の卵「イースターエッグ(ウオーヴォ・ディ・パスクワ)が並ぶ。卵は静的な状態から生きものが出てきて動き出す様子から、復活の象徴である。殻をチョコレートで作って中におもちゃを詰めたギフトが復活祭の定番となっている。手軽なものだと掌サイズ。大きなやつはラグビーボールぐらい。ドラゴンボールのイースターエッグは、中に悟空のフィギュアが入っているようだ。果たしてローマ・カトリックの聖職者たちは、イースターエッグの中からドラゴン・レーダーが出てくる文化的・宗教的カオスをどう解しているのだろうか。  語学学校の入った雑居ビルで、3階まで階段をあがる。教室に入ると、ドイツ人の女の子が時刻から持ってきた復活祭のチョコレートを披露していた。筆箱ぐらいの大きさの、チョコレートで作った兎の像だ。ドイツでは豊饒・多産のイメージから、兎の形をした菓子で祝うと聞く。  ルチアの隣の席に腰掛ける。 「週末はどうするの?」  1か月の滞在期間が終わりに近づく。最後の週末をどう過ごすか―― ルチアに訊かれた。 「せっかくイタリアに来たんだし、他の町も見ておこうかと。ナポリにでも行ってみるつもり」  ナポリはローマの南方にある港町だ。ローマの多国籍な雰囲気とは別の、太陽のように開放的で陽気な印象があると想像していた。自由気ままに散策しながら、ナポリの海風に吹かれてみたい。ピッツェリア(軽食の食べられる店)で魚介類の豊富な昼食を食べてもいい。  余談だが、ナポリタン・スパゲッティのナポリンタンとは「ナポリ風」という意味だが、実際のところはナポリタン・スパゲッティ(スパゲッティ・アッラ・ナポレターナ)は存在しない。トマトベースのピッツァである「ピッツァ・アッラ・ナポレターナ」ならある。  とにかくアパートで三姉妹に気をつかいながら閉じこもっているよりかは、どこかに出かけたい気分だった。実はルチアとも少し距離を置きたい。  あと2か月はローマにいる予定のルチアを置いて日本へ発つ日を想像すると寂しかった。ローマにいる間から距離を置いて、ルチアを失う悲しみに少しずつ慣れておきたい。 「ナポリに何があるの?」 「さあ、あんまり調べてない」 「私も行くよ」ルチアは真剣な眼差しを私に向け、「独りでいるのは良くないよ」と訴えた。  この言葉が私の心に刺さった。ルチアのように人に囲まれる生き方に憧れる。ただ私にはできないから憧れるのであって、居心地のいい人間関係を築くのが下手だ。そのため単独行動が増えていくが、ほぼ諦めていた。他にも苦手なことがある。たとえば植物の世話。なぜか枯らしてしまうので、私には何かを育む能力が欠けているのではと疑う。せめて命を絶たれる植物が増えないように、アパートに観葉植物を置かないようにしている。人間関係もアパートに鉢植えを置くことと同様に諦めているふしがあった。  ルチアの気持ちは素直に嬉しい。私にも一緒に旅をしてくれる友がいる。同時に、ルチアとのお別れがますますつらくなる数日後の帰国への不安もあった。  ナポリに向かう鉄道の中で、私たちはナンパされた。  若いイタリア人の3人組。勝手に隣に座ってきて、薄ら笑いでなんやらかんやらと話しかけてくる。  西欧の女性と違い、はっきりと拒絶の言葉をはけない私たちは、決して笑顔を見せない仏頂面で不快感をやんわりと示した。ルチアはしとやかで控え目な性格から、イタリア人の青年との出会いを求めてはしないだろう。私は青年たちの登場に苛立っていた。ルチアとの最後の小旅行だ。意味のある旅行にしなければならならい。  適当に応じているうちに、私の隣に座る青年が覗き込んでくる。「わかった。きみの友だちはベッラ(美人)で、きみはインテリジェンテ(賢い人)だ」  頭に血がのぼる。  青年はおそらく2人を平等に褒めたつもりでいただろう。だがたいていの女はインテリジェンテと評されるよりもベッラと言われたいものだ。ルチアみたいな美人でなくて悪かったね、と卑屈になる。メイクを欠かさずに常に美意識の高いルチアと、すっぴんによれよれのTシャツで町を歩ける私とでは、女としてのレベルが格段にちがうことは、本人が一番わかっているのに。  相手は3人、もし私たちが仲良くなれば、ルチアを手に入れた勝者と、渋々2番手で妥協した者と、あぶれる敗者の三人に別れる。いや、2番と3番の順位はどちらが高いかわからない。  私たちはナポリまでだが、彼らはもう少し先まで行くようだった。連絡先も交換せずにルチアとナポリ駅に降り立つ。  駅から港までバスで移動する。車内はそれなりに込んでいて、揺れで周りに立つ人の身体とぶつかる。  バスを下りてすぐ、ズボンのポケットに入れていた財布が消えていると気づいた。  慌てて衣服のすべてのポケットをさぐる私の様子を見て、ルチアが心配そうに「大丈夫」と瞳を潤ませる。 「ああ、バスの中のスリだ……」と日本語でつぶやくと、ルチアが「スリ?」と反応する。スリは韓国語でもスリというらしい。  ナポリはローマに比べて治安が悪いうえに経済状況が逼迫しており、スリや置き引きが多いとは聞いていた。だがまさかナポリの土を踏んですぐに財布をすられるとは思っていなかった。  ナップサックを下ろしてかがみ込み、片方のスニーカーを脱いだ。次いでもそもそと靴下も。  財布を奪われるピンチを想定した念のための対策として、財布の中には小遣い程度の金しか入れていない。靴下の中に10万リラ(約1万円)を忍ばせていた。これでとりあえずは、旅行中に金銭面でルチアに迷惑を掛けずに済む。ただ、財布自体が残念である。めったに愛情を示さない父からのプレゼントだったから。  ピッツェリアでピッツァ・アッラ・ナポリターナを目の前にしても、気持ちは上がらなかった。溜息ばかりつく私を、ルチアは困った顔で見守っている。  浮かない空気で味気ない食事を済ませたあと、2人で並んで港を歩く。ナポリには素晴らしい教会や美術館があるが、もともと独りで行くつもりだった私は、何の下調べもしていなかった。どこへ行くべきかわからない私たちはただ、港の縁(へり)に腰を下ろし、黙って海を眺めた。自分の過失によってルチアとの最後の旅行がひどい内容になってしまった落胆は、私をとことん打ちのめした。
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