6.ファブリツィオの思い出

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6.ファブリツィオの思い出

 バスの中で、雨上がりのローマの街を眺める。  道路にできた水溜まりに、行き交う車のタイヤが映っては消えた。ローマは交通量が多すぎる。  ブランドショップが立ち並ぶ目抜き通りで、バスは信号待ちのために停車した。ショッピングセンターの前に人だかりができていて、中心でカップルらしい男女が派手は口げんかをしていた。バスの乗客たちもけんかを見ようと片側の窓のそばに集まる。カップルのうちの女が黄色い声で「傘を畳みなさいよ! もう降っていないでしょうが!」とわめく。相手の何もかもが気に入らないようだ。もはや何が原因でけんかになったかを推し量ることはできない。 「どうしようもないな」 「ああなったら、収まるまでに時間がかかるだろう」  年配の乗客たちが窓から口げんかを眺めながら、好き勝手に批判する。世界のあちこちで不和が存在するような、なんだかモヤモヤとした感じがするのだった。  ルチアとのナポリ旅行のあと、3日間の授業が残っていた。なんとなくルチアと顔を合わせづらくて登校できない。かといってアパートも居心地が悪い。この憂えた気持ちをイタリア語で説明できるわけはなかった。なんでもYesかNoかではっきり意思表示しないといけない文化にひどく疲れていた。独りで街に出て徘徊する、とはいえ人の多い場所を歩けば完全な独りを味わえるわけではない。「今、何時かわかる?」と話しかけられるベタなナンパにも遭うしタクシードライバーに手の甲をべろんと舐められて「運賃をタダにしたやってもいいんだぞ」と口説かれたり。やはり女一人が暗い顔で徘徊すると、相手をさがしているように見えるのか。ほとほと疲れて、暗くなるまでに帰る。三姉妹への挨拶を薄ら笑いで返して、部屋に閉じこもってさっさと寝てしまう。  授業の最終日だった。  こんな形でルチアとお別れになるとは。  帰国後の連絡先も交換していない。熱い感情を言葉で伝えられないもどかしさと迫りくる別れの日と異文化での消耗。さまざまな要素で私は心に殻をつくり、誰とも接したくない気持ちになっていた。せっかくルチアといられる貴重な時間を、私はただ無目的に歩き回ることで消費しようとしている。そんな自分の不甲斐なさが情けない。  夜通し歩き回っているわけにもいかない。  バス停から家まで徒歩で約十分。夕日を背に一度はアパートに向かって歩き出したが、平気な顔で三姉妹に愛想を振りまく自分を想像をするだけで胃がきゅーっと縮んだ。  陸橋の下に――これまで目につかなかった公園が目に入る。公園といっても雑草が伸び放題の荒れ地にベンチがあるだけだ。階段をおりてベンチに座ってしまうと、車道からは見えにくい場所であることが気に入った。  ここなら遠慮なく泣いていい気がした。  片目からぽろっと涙をこぼしたら、腹の底から熱いものがこみ上げてきた。ローマに着いてから蓄積してきた、誰にも伝えられない感情たちが一気に出ようとして苦しい。声を上げて泣いた。ちょうど車の走行音が、声をかき消してくれる、と思っていたが――。 「えーっと、うん。雨が上がったね」  気がつくと、隣に人が立っている。黒目がちで憂いを帯びた瞳をした青年だった。小柄で全体的に丸っこい感じに仕上がっていて、愛くるしさが私の警戒心を緩めさせた。 「隣、空いてる? いいかな?」  私は嗚咽をこらえて「プレーゴ(どうぞ)」と答えた。  青年は私と1人分の距離を置いて、ベンチの端に腰かける。胸ポケットから出したくしゃくしゃのタバコの箱から、短い指でタバコを1本抜き出す。ライターで火をつけ、目を細めて夕日を眺めながら一服し始めた。  ――見ず知らずの泣いている東洋人女の隣に、わざわざ座らなくていいのに。  ベンチは一つしかないとはいえ、空気を読んで遠慮しそうなものだが。  思い切り泣かせてもらえる場所がここにもない事実に軽く失望した私は、心の中で青年に毒づく。 「あのね、ここはあまり素敵な場所とは言えない。女の子が1人でいると危ないんだ。わかる?」 「わかる」 「家は?」 「近くのアパート。でも帰りたくない」 「話を聴かせてくれる?」 「無理。私、イタリア語があまりうまく話せませんから」 「ゆっくりでいいよ。大丈夫だから、話してみなよ」  私は単語を組み合わせて話しはじめた。ホームステイ先の三姉妹と気が合わないこと、文化の違うローマでの暮らしにしんどさと孤独を感じていること――。  発音やアクセントが間違っているうえに、泣きじゃくりながらの話である。きっと理解が難しいだろう。だが青年はタバコをふかしながら、しっかりと耳を傾けてくれた。 「きみの話、よくわかるよ」、「ああ、ローマはそんなところだ」との青年の相づちに支えられて、気がつけばルチアとの関係性やナポリでの失敗体験まで話していた。  夕日は落ちていく。ローマでも大阪でも、雨上がりの夕日は燃えながら落ちていくものだな、となんとなく思った。どちらの町も複雑でごちゃごちゃしていて、市外局番が06である。 「そうか。わかったよ」  私の話をひととおり聴いたあと、青年は立ち上がる。とりたてて質問を重ねるわけではなく、アドバイスをするわけではなく。聴いただけだ。ただ、しっかり聴いてもらった。私の心は青年の温かさで満たされていた。想いが伝わらないジレンマを言葉の壁や文化の違いのせいにして逃げてきたが、そんな私の甘さを拭い去ってくれるような、厳しさを含む優しさだった。 「暗くなってきたね。1人で帰れる?」 「大丈夫」 「そうか。じゃあ、気をつけて」  夕闇の中で背を向けた青年に声をかける。 「名前を教えてくれる?」  数日後にローマを去る私が、青年の名前を訊いたところで人間関係になんの進展もない。わかっているが、純粋に知りたかった。ひょっとすると直感で、この出来事が、私にとって大切な思い出になると察知できたのかもしれない。  青年は振り返る。夕日で影ができてわかりにくい表情でも、はにかんでいる感じが伝わる空気をまといながら、「ファブリツィオ」と答えた。  こうしてローマでの1か月の滞在が終わった。  もしかしたらこの短期留学体験で私が学んだ最も重要なポイントは、「人はわかりあえない」ということだったかもしれない。言葉は簡単に伝わらない。話せばわかってもらえるものではない。  と、結論づけようとすると、ファブリツィオの思い出が打ち消す。  たしかに人は簡単にわかり合えない。会話に長けているかは関係ない。言葉が不自由でも、伝わるときは伝わる。たとえ1ピースでもわかり合えた一瞬の喜びを糧に、孤独に絶望せずに生きていける。  ティラミスに似た体験。マスカルポーネチーズとココアパウダーが層を成すこのデザートの名前の由来は、イタリア語の言葉"Tira mi sù"。ティーラミスゥ! 私を引っ張り上げて! 栄養と愛情がたっぷりのお菓子で元気づけて。下を向いた私の顔を上げてくれるファブリツィオの思い出は、まさに私だけに差し出された特製ティラミスだ。  日本に帰国した私には、またしても孤独と混沌の日々が待っていた。外国語を学びながら「伝わらない気持ちをいかに伝えるか」について実習を繰り返す毎日である。  失敗もたくさん。  心が邪魔をして、伝えられないこともある。ジホにはなるべく会わないように気をつけながら大学生活を過ごした。それでも廊下でばったり会うこともある。ジホは白い歯を見せて気さくにあいさつしてくれるが、私は下を向いてそそくさと去る。気の利いた話がひとつもできないうえに笑顔もなく、おそらくは微妙な困り顔をジホに向けていただろう。  ジホがいなくなる夏休みには、アルバイトを7つ掛け持ちして貯めた旅費でインドに発った。農家に軟禁されて長男と結婚させられそうになったり、サイババに会ったりした奇特な体験をしておきながら、話す相手もなく心の中に秘めてきた。  すっかり日焼けして帰ってくると、ジホのいないキャンパスでの新学期がはじまる。  ジホへの片想いを応援してくれたクラスメイトには感謝していた。特にカナコは、よく気に掛けてくれていた。そんなカナコと学食で一緒になる。 「ジホ、帰っちゃったね。なんだか寂しいかも」カナコがつぶやく。「あのね、ジホが言ってたよ。『僕はヒロミさんに悪いことをしたかもしれない』って」  悪いことなんて、何もしていない。私はジホが好きだった、ジホは私を恋愛対象として見られなかった。交渉不成立、ただそれだけ。私にもう少しうまく立ち回れる能力があれば、もしかしたら友人としての仲を保持できていたかもしれないが。  光を反射しないべったりと黒い瞳でカナコが私を覗き込む。 「ヒロミがいない間に私、ジホに連絡先を教えてもらったんだー。『韓国に来たときは案内しますよ』って。ヒロミにも連絡先を教えてあげてもいいけど? あーでも、どうしよっかなー」  このときまで、カナコに友人の恋人や片想いの相手を奪う癖があるとは知らなかった。この後も他のクラスメイトの恋人に手を出そうとして責められる事件に私も居合わせた。カナコは泣きながら、「ごめんなさい、私には父親がいないから」と弁解した。おそらく父親がいない→コンプレックスがある→心が歪んでしまったという流れを説明しようと試みた結果であると解するが、父親がいなくても立派に育った人たちに対して謝れ、と言いたい。  そのうち冬が来て、深夜のアルバイトに出かけるのが厳しい寒さになってきた。アルバイト先のカフェの休憩室で、同僚の女の子が頰を紅潮させて話し出す。 「もう3回も観ちゃったんだー。それでもまだ観たい。もうっ、かっこよくってさぁぁぁ」  レオナルド・ディカプリオの演技がすごいとかどうとか。ラブロマンスに興味はなかったが、映画館の暗闇は逃げ場として機能する。アルバイトの合間を縫って映画館に赴き、深紅のシートに腰を沈めた。  ディカプリオが扮する画家の卵・ジャックはポーカーの賭けに勝ち、タイタニック号のチケットを手に入れる。チケットは2枚。友人を連れだって、大喜びで乗り込む。  タイタニック号に乗ってアメリカを目指せる幸運を引き寄せたつもりでいたジャックだが、結果的には沈没事故に巻き込まれる不遇となる。それでもジャックは船の中で運命の女性と巡りあい、恋ができたから幸せだったと告白している。  では、同行した友人は?  名前はファブリツィオ。海に放り投げられた彼は、落ちてきた船の煙突に直撃され、海の(あぶく)となった。残骸(ざんがい)は、私の心の中の深い深い部分へと落ちていく。〈了〉
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