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 妻に送ったメッセージには既読がついていなかった。二日も前に送ったものだ。やっぱりな、とは思ったが、かすかな期待が残っていたことを自覚してしまい、またそれを裏切られたことによる憤りと切なさが込み上げてくる。いつものことじゃないか、と自分を慰めることも、また虚しい。 「どーしたんスか、そんなため息ついて」  隣のデスクから気だるそうな声が飛んできて、不覚にもびっくりした私はスマホを取り落としそうになる。 「いや、ビビりすぎっスよ」  声の主――喜多見トウカがヘラりと笑う。黙っていればパキッとしたOLなのだが、人を小馬鹿にしたような笑みは時々、鼻につく。  しかし、フロアに二人しかいない残業仲間だというだけで、私の心は彼女へ対してわりとオープンだった。 「いや、実は……」  と、気づけば彼女に事情を説明してしまっていた。 「へぇ、奥さんまた出てっちゃったんスか」 「いつものことさ。また実家にでも戻ってるんだろう」 「浮気でもしてたりして」 「……それならそれでいいさ」 「うわ、ごめんなさい」  慌ててハンカチを差し出してくる喜多見。泣いてなどいない。しかしハンカチは受け取った。 「まー、深くは聞きませんけど。いつも奥さん、すぐに戻ってくるんでしょ? だったらいいじゃないっスか。戻ってきたら、たっぷり妻孝行してあげるんスよ」  そう言って、彼女はもう興味をなくしたように視線をデスクに戻した。てっきりPC作業をしているのかと思いきや、手元にはスマホが立てかけてあって、なにか動画を見ているようだった。「仕事は終わったのか?」と問うと、「遊びながらじゃなきゃこんなもんやってらんないっス」という答えが返ってくる。不真面目なやつだ。私も少し気分を入れ替えようと思って席を立ち、二人分のコーヒーを淹れて戻った。 「ありっス」  デスクにカップを置くと、喜多見は顔も上げずに礼を言う。彼女の視線はスマホに注がれたままだった。 「何をそんなに熱心に見てるんだ?」  あまりにも熱の籠もった目だったので、なんの気なしに訊いてみる。チラリと覗いたスマホの画面には、しめ縄のようなものが見えた。何を見てるんだ、こいつは。 「南原さん、オカルト系いけます?」 「は?」  質問に質問を返され、一瞬虚を突かれたものの、すぐにその意図は察せられた。つまりは、彼女が今見ているのはそういう類のものだということか。 「人の趣味にケチつけるつもりはないが、基本的には信じてないな、そういうのは」 「んじゃ、この話はここで終わりっス」 「そんな邪険にしなくてもいいじゃないか」  安いオフィスチェアに腰を下ろすと、キィ、と軋む音が薄暗い部屋に響いた。意識のどこかでその音を少し耳障りに感じたが、口に含んだコーヒーの香りに打ち消されるほどの些細な感覚でもあり、すぐに過ぎ去っていって気に留めるほどのものではなかった。 「信じてないだけで、まったく受け付けないってわけじゃない。それに、不思議な経験なら俺にもある。虫の報せ……っていうのかな。小学生の時、夢にじいさんが出てきたことがあった。何か説教じみた話をくどくどされた覚えがあるが、結論的には家族を大事にしろ、みたいな話だったと思う。じいさんが死んだのはその次の日だったよ」 「へぇ。いいじゃないっスか」  人の不思議体験に対して採点をするように相槌をうつ喜多見。 「けど信じてないんでしょ?」 「ああ。だって証明できないだろ、それが本当にじいさんの霊とか……魂とか? とにかくそういうものだったとしても」 「ふぅん。中立の人っぽい意見っスね」  そう言って、喜多見はスマホをこちらに向けた。マジマジと画面を覗き込むと、それはとても奇妙な映像を流していた。  暗がり……おそらく屋内だが、その中に、輪の形に結ばれた縄が浮かんでいた。輪の下半分には、ひし形を連ねるように折られた白い紙が括られていて、まさにしめ縄のような見た目をしている。一瞬、本当に闇の中で宙に浮いているのかと思って驚いたが、よくよく見れば、上から吊るされているだけだった。 「……これ、なんの動画なんだ?」  画面の片隅にはLIVEのマークが入っており、これが生配信中の映像であることがわかる。ますます何なのかわからない。 「SNSの一部界隈で話題になってるんっスよ。お化けとか心霊の類じゃないんスけど。どっちかっていうと、特殊な性癖を持つような人……ようは変態が好むようなやつで」 「はぁ」 「けど、あんまりにも得体が知れないんで、あたしみたいなオカルト好きも注目してるんス」 「つっても、輪っかが映ってるだけじゃないか。これ生配信だろ? こんなもん流していったい何が……って、一二〇時間!?」  動画の概要欄に小さく書かれていた数字を見て、私は目を疑う。この動画は、一度も途切れることなく連続して一二〇時間も生配信を続けているらしい。 「こんな輪っかだけを映してる映像を? 五日以上も?」 「これでもまだ短いっスよ。前は三ヶ月ブッ通しでしたし」 「……お前、こんな時間を無駄にするような配信にかじり付いて何やってんだよ」  だから仕事が終わらないんだぞ、という言葉は飲み込んだ。何にかまけていても、結局、残業はあるときにはあるのだから。 「まあ、ほぼほぼ全編、輪っかを見てるだけっスから、時間の無駄といえば無駄っスね。でもいつ始まるかわかんないから、目を離すわけにもいかないんスよ。アーカイブ残らないし、転載動画もわりとすぐ消されちゃいますし」 「はぁ……」  私はため息をつく。心底呆れた。その配信が何なのか、何が起こるのか、何が始まるのか、そういった好奇心もなくはなかったが、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて追求する気にならない。 「別に見るなとは言わないけどな、そんなことしていると仕事終わらないぞ」  結局言ってしまった。  自分のデスクに向き直るが、遊んでなくとも終わっていない仕事に辟易する。  作業に戻ろうとしたとき、デスクの隅に置いたままにしていた自分のスマホが目に入った。つい手にとって、再び妻へのメッセージを確認したが、やはり既読はついていなかった。  今夜何度目かのため息をつき、作業に戻る。このまま妻が戻ってこなかったら、週末に彼女の実家近くまで行ってみよう。  それよりもまずは、今夜の仕事をやっつけなければ。 「あっ……アッ! あ、あ、あ、あー!」  集中しだした途端、隣から素っ頓狂な叫び声が上がった。さすがにイラっときて睨みつけるが、喜多見は相変わらずスマホにかじり付いていた。 「なに、でかい声出すなよ」 「ちょちょちょちょ、始まった! 始まったっス!」 「あぁ?」  今まで見たことのないテンションの上がり様につられて、喜多見のスマホを覗き込む。  先程まで何の動きもなかった映像には、確かに変化が現れていた。  人が映っていた。白い服を着て、背中がアップで映っている。ちょうどカメラと輪の間に立っているようだ。予想外の映像にゾワリと鳥肌が立つ。  その人物は、女性のように見えた。丸い肩に細身の体。白い服はセーターのようだ。彼女は背中を向けたままゆっくりと手を持ち上げ、あの輪を握った。そしてそれを、自分の方に引き寄せ、あろうことか、その中に首を突っ込み始めた。 「おい……これ……」  嫌な予感が、そのまま悪寒となって全身を駆け巡った。まさか、という恐怖と、いやそんなはずは、という打ち消しの気持ちがせめぎ合う。だってそうだろう。誰でも見られる動画サイトで、生配信で、そんなことが起こるはずがない。  しかし、あっ――と思ったときには、あまりにもあっさりと、その人物はコトを済ませた。  ガタン、と何かを蹴倒すような音がして、ギシギシと縄が軋む。くぐもった声が聞こえて、しばらく悶えた後、次第に動きが鈍くなっていき、ついにはダラリと動かなくなった。 「やばぁ……」  ボソリと喜多見がつぶやく。 「配信してるアカウントは毎回ちがうんスよ。どこで撮ってるかも分からないし毎回場所もちがうし。けど輪を見てるだけなのに誰かがこうやって首を吊りに行くんス。まるで線路に引き寄せられるみたいに。配信にはいつも特定班が張り付いてて場所の特定は彼らがやるんス。志願者は彼らからその情報を買うみたいっスよ」  早口で訊いてもいないことを喋りだした彼女は薄ら笑いを浮かべていた。その笑みにぎょっとして、背筋が凍りつく。  私は自分のスマホを取った。しかし横から喜多見の手が素早く伸びてきて、操作しようとする私の手を強く掴んできた。 「離せ」 「何するつもりスか?」 「通報だよ、当たり前だろ」  私は心底こいつを軽蔑した。こんなものを彼女は待ち望んでいたのだ。この配信はつまり、人が首を吊るところを、人が死ぬところを生中継していたのだ。フェイクかもしれないが(むしろその方が何倍もいい)、それでも悪趣味が過ぎる。まずは警察に通報し、それからヤラセであることが発覚するのなら、それでいい。 「ダメっス、絶対」 「お前、おかしいぞ。こんなもん見たがってたのか? こんな、人が死ぬところを。それともやっぱりヤラセか? 作り物なのか?」 「そんなの知らないっスよ。とにかくダメっス、通報なんて。それに、しても無駄っス。今まで何人も通報してきたけど、この配信はもうこれで八回目なんスから。終わらないんスよ」 「馬鹿じゃないか。お前も、これを見てる奴らも!」  私は喜多見の手を引き剥がし、スマホを操作する。  通知が一件来ていた。妻からの返信だった。  だが今はそれどころではなく、無視して電話アプリを立ち上げようとしたが、一瞬だけ見えた通知欄のメッセージが胸に引っかかった。  一一〇番をする直前、操作を戻して、メッセージアプリに切り替える。  私が送ったメッセージには既読がついていた。  そしてその下に、妻からの返信が来ていた。ほんのついさっきだ。  メッセージは短かった。 『さよなら』  たった四文字。  冷たい手で心臓を握られたようだった。  私は一一〇番ではなく、妻の番号に電話をかけた。メッセージのやり取りではなく、直接彼女に、何のことかと問いたださなければならない。  呼び出し音が鳴るのと同時に、妻のスマホの着信音が聞こえだした。  いったいどこから聞こえたのか、一瞬混乱したが、音の出どころはすぐにわかった。 「あれ、電話だ」  喜多見がつぶやく。  彼女のスマホから聞こえていたのだ。  いや正確には、彼女のスマホに、今も表示されている映像からだった。  呼吸が乱れていく。  何が起こっているのか、分かるのに、分からない。  喜多見のスマホの中で、首に輪をかけてぶら下がっている女性が、力なくぶらぶらと揺れ、そして、ゆっくりと回って、こちらに顔を向けた。  私の手から、スマホがするりと、抜け落ちていった。
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