キリンのマフラー

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 明日は僕がキリンになる日。  子どもの頃から人と比べて首の長いほうだった。手足も長ければ全体のバランスが良かったのだろうけれど、長いのは首だけで、他はあまりぱっとしなかった。  冬になるとその首が風に吹かれてひどく冷える。あなたの首は寒そうだわ、と言ってマフラーを編んでくれたのは恋人のサオリだった。きちんと長さをはからずに素人のサオリが編んだマフラーは、他の人よりも長い僕の首にはいっそう幅も長さも足りなくて、サオリはしょぼんと肩を落としたものだった。  ――だめね、私、不器用で。それに適当な性格だからこんなことになる。  サオリは気落ちしていたけれど、僕は嬉しかった。ぼこぼこの網目のマフラーが、この世で一番あたたかなものに思えた。  気に入った、と言うと気休めはやめて、と膨れる。気休めでも慰めでもなく本心なのにと僕は笑った。  僕を見て寒そうだと心配してくれて、それをあたたかさで包もうとしてくれる存在がここにいる。それをとても、幸福に思ったのだ。  キリンになる準備はもう整っていた。  僕の長い首は、明日にはもっと長くなっていることだろう。  サオリと結婚の約束をしたのは去年の夏だった。あれから数ヶ月が過ぎて、外はひどく冷えている。暖房の消えた部屋の中、息は室内でも白く霞んで空気に溶けて消えた。  首が寒いな、と思う。人より長い僕の首は、もう何かで包まれることはなく冷えたままだった。  体が冷えると心も冷えるのか、かたかたという体の震えは心にもうつって、悲しい悲しいと叫びながら凍えている。  サオリは死んでしまった。交通事故に遭ったのだ。  結婚式は挙げないけれど、その分旅行は思い切り楽しもうと色んなプランを考えていた。南の島が良い、北の空も見たい、綺麗な街を歩きたい、と考えるだけでも楽しかった。ほんとうは、どの国のどんな街だって良い。サオリのとなりを笑って歩けるのなら。  けれど今、そうして思い描いていた旅先の景色の中で僕と手を繋いでくれるはずだった幸せの源はかき消えてしまった。運ばれた病院で触れた指先にもう熱はなく、いのちのない冷たさが流れ込んでくるようで愕然とした。  新居への引っ越しはまだ住んでいなくてお互いにひとり暮らしをしたままだったけれど、すぐにでも一緒に暮らし始められるように、荷物の整理と退去の準備はしてあった。  僕は人と比べて間抜けなほど長い首を、もっと長くすることにした。  サバンナで暮らすキリンたちは、首が寒いと思うことはないだろう。けれど寒い部屋でひとりぼっちになってしまった僕というキリンは、その首に冬の風を受けてみすぼらしいほど寒そうに見えるだろう。  そう。僕は寒いのだ寂しいのだと、その首の長さをもって示したい。サオリがいないと悲しくてしかたない。辛くてどうしようもないのだと、叫ぶ代わりに何にも包まれなくなった首をさらして嘆きたい。  部屋の退去はあらかじめ連絡してあった。管理会社の立ち合いは明日の夜にしてあるからきっとすぐに見つけてもらえる。鍵は開けておく。窓も開けておく。冬だから匂いがすることはないだろうけれど、事故物件にしてしまうことには気が引けた。  だけどどこで死んだとしても、誰かには必ず迷惑がかかってしまう。山で死のうと森で死のうと、そこは誰かの土地なのだから。  申し訳ない、と思うけれど、サオリのいないこの世界でこの地上で、首を寒くして生きていくことはもうどうしてもできそうにない。  首吊り死体は醜いという。自らの体重によって首が引き伸ばされてしまうのだそうだ。  そうだ伸びろ、と僕は思う。もとより長い首はより長く。キリンのように伸びろ伸びろ。その首に窓の外から雪混じりの風が吹いて僕はきっと寒い。とても寒い。  寂しい! 寂しい! とこの世のすべてに声のない叫びをぶつけて死にざまをさらすのだ。長く細くなった首は、サオリを喪った寂しさの証だ。  椅子の上に立ってイメージする。この椅子を蹴って、縄を首に食い込ませる自分の姿を。  明日は僕がキリンになる日。綺麗な空気の朝の時間に、椅子を蹴る。  ――とその時、玄関を控えめに叩く音がした。空は夕暮れ。電気も止めてあるので部屋の中はもう暗い。 「どちら様ですか」  発した声は平静で、感情の色を何も乗せることができなかった。  玄関のドアを叩いた人は、僕の返答に驚いたようにがたりとドアを揺らした。 「いるのね? 良かった、あなたの職場に電話したら突然辞めてしまったと聞いて……!」  サオリの母親の声だった。寒さでぎくしゃくと動かしづらくなった関節を動かして玄関に向かう。どうしてだろう、光をその扉の向こうに感じた気がする。サオリの母親は泣いている。けれど絶望の泣き声じゃない。 「なにか、ありましたか?」  サオリの火葬は明日に決まっていた。サオリがサオリであった証が燃えて空へ昇るのと時を揃えて旅立つつもりだった。  縄の垂れた部屋の中を見られないよう、細く開けた隙間から顔を出して問う。サオリの母は抱えていた大きな紙袋から何かを取り出した。 「これ……!」  出てきたのは、長い――とても長い、マフラーだった。 「あなたに渡さなきゃと思って探していたの」  サオリの母は言う。 「あの子がいつか、言っていたことがあって」  ――私、変な夢を見たのよ。  あの人がキリンになっている夢。キリンなのに吹雪いている雪景色の中にいてね、長い首がとても寒そうだった。  そんなに長い首をさらしていたら風邪をひいちゃうわって言っても、キリンになったあの人は寒がるばかりで話を聞いてくれないの。  私あの首をあたためてあげなくちゃって思って、一生懸命マフラーを編んでキリンの首にぐるぐる巻きつけてやったわ。  あれは夢だってわかっているのに、気づいたらたくさん毛糸を買っていたの。 「そんな夢の話を聞かせてくれたわ」  ずるずると、大きな紙袋からマフラーが出てくる。 「他にもね、あなたのこと、どうしようもない子どもみたいだって言ってたわ」  ぽろぽろと涙の粒をこぼしながらサオリの母親は笑った。  ――夢の中のキリンもそうだったけど、あの人、嫌なことを嘆くばかりなのよ。  辛いんだ苦しいんだって言うばっかりで、それを自分からどうにかしようとはしない。周りに向けて『僕はこんなに辛いんだ』ってアピールするのに必死になって、まるで子どもみたいなの。  寒いって言うくせにマフラーも巻かないのよ。『どうせ僕に合うマフラーなんて見つかりっこないし』って、いじけたみたいに言って。  ――あきれたの? 結婚をやめたいとか?  ――ううん、その逆。何だかこの人どうしようもないなって思っちゃったのよ。私がどうにかしてあげなくっちゃって。辛いって言うのなら辛くならないようにしてあげたいし、痛いっていうのならよく効く薬を探してあげたい。  甘やかしてあげたくなっちゃったのね。私もどうしようもないなぁ。  ――自分にぴったり合う人と出会えたってことね。  ――私が伸ばした手を、嫌がらずに受け入れてくれるの。たぶん、私はそれが嬉しいんだわ。善意も好意も疑わずに受け取ってくれるの。  ひとかけらの疑いもなく私を信じてくれる。言葉も気持ちも丸ごとそのまま受け取ってくれる。そんな人、初めてだわ。  だから私、もしあの人が悲しいって言ったら悲しくならないように全力で慰めたいって思うのよ。  ――ところでその長すぎるマフラーは? いくらなんでも長すぎるとお母さんは思うわよ。  ――編んでいる本人の私も、さすがにこれは長すぎるわって思っているところ。やめ時がわかんなくなっちゃった。  だけどこんなやりすぎのマフラーも、きっとあの人は受け取ってくれるのよ。嬉しい、寒かったんだ、って贈ったこっちが驚くほどに喜んでくれるの。  去年のマフラーはちょっと失敗しちゃったから、リベンジ。きっと今度こそ足りなくなんてならないわ。夢の中のキリンにちょうどいいくらい。  ものすごく喜んでくれるって、信じてる。  紙袋から次々と出てくるマフラーは、途中で色を変え柄を変え、まばゆいほどにカラフルだった。いつの間にかドアは大きく開け放たれて、マフラーは玄関から道を作るようにして部屋の中に流れていた。  僕の首をあたためるためにサオリが編んだマフラーが、寒くてひとりぼっちだった僕の部屋の床を埋めていく。 「不格好だけど、もらってくれるかしら?」  彼女の母は、そう言った。僕は贈られたマフラーに頬をすり寄せる。 「あったかい……」  首を吊るための縄よりも、ふわふわと柔らかな彼女の想いの集まりを、僕は首に巻いていたい。     *  今日は君が煙になる日。良く晴れて澄んだ冬の空を昇ってゆく。  僕は今日、キリンにはならなかった。  調べてみたら、首を吊っても人の首はそんなに長くはならないものらしい。ただの醜い僕の死体の首に、この優しいマフラーが添えられているなんていう悲しいことにはしたくなかった。  僕は生きている僕のままで、マフラーを巻いた。黒い服にカラフルなマフラーをぐるぐる巻きにして、家を出た。  大事な人が焼けて出てくるのを待つ時間を、僕は外に突っ立ったままで過ごす。  君が残してくれたものがあったかくて嬉しいのだと感謝しながら、それでもどうしようもなく辛いんだ、いなくならないでくれと心で叫びながら、君が燃えるのを待っている。  やわらかな体は骨に、優しい心は空に。けれど君の本質はもう、きっとこの世のどこにもいない。  澄んだ空はいつしか灰色になり、雪が降ってきていた。  僕の首にだっていくらなんでも幅がありすぎて長さも余りすぎてしまうマフラーに顔を埋めて、頬に降ってくる雪を熱い涙で溶かしながら呻くように泣いた。  みっともなく情けなく、寂しい悲しいあったかいと、彼女が煙になるのを見上げながらむせび泣く。  ひとりは怖いと泣いても、もう君は手を伸ばしてはくれない。  高みに溶けていく君を為すすべなく見送りながら、僕はマフラーだけでは覆いきれない寂しさに身を震わせて、別れを告げた。
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