変わらず僕のそばにいて

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「ゲホッ」  痰が絡んだような重めの咳が、静かな教室内に響く。 「ゲホゲホ…」  それは教室の前方、教壇のパイプ椅子に腰掛ける、塾講師である青柳比呂の口から漏れるもの。  教室内は一定の湿度に保たれているはずだが、一度出てしまった咳は容易に止まらない。  比呂自身、子供達に移すわけにはいかないのでマスクを着けているが、それでも喉に刺激があるらしい。  いや、これは本当に喉が原因なのか……。  そう感じたとたん、タイマーがピピっと鳴った。腕を伸ばし、それを素早く止める。 「ゲホ、ゲホ……。時間だよー。終わった人はプリント出して……、それで終わり〜」  教室内の雰囲気がなんとなく緩む。早々に比呂が座る教卓にプリントを提出して出ていく子が数人。 「せんせーさよーならー」 「はーい、さよーなら」  可愛らしい挨拶を交わして子供を見送る。そしてゴホゴホと再び咳。  そこにちょこちょことやってきたのは、四年生のナミだ。 「せんせい、コンコン止まらないね」  大きな瞳に心配そうな光を湛えて比呂を見上げてくる。  子供にも心配をかけてしまっている。今日は授業の冒頭からこんな感じなのだ。少し話しては咳き込んで、子供が心配そうに見てくる構図。  今日は早く休もうと心に誓う。採点があるけど明日の午前中にやれば大丈夫。 「聞き取りにくくてごめんね。先生、風邪引いたかな……ゲホゲホ!」 「大丈夫?」  思わず咳き込み、あーこれは風邪ではないなと悟った。まずい。この重たい感じは喘息だ。  比呂は、子どもの頃から喘息持ちで、疲れたり風邪を引いたりすると簡単に発作が起こる。体調を崩しやすい体質にもかかわらず、この学習塾で働けているのは実家の母親が運営しているためだ。 「へ……へい、き」  そう息も絶え絶えに言うが、ナミは心配そう。手が伸びてきて背中をさすってくれている。 「せんせい〜、ちゃんとマキ先生のところに行きなよ!」  そう言ってきたのは同じ四年生の浩太だ。 「マキ先生〜?」  比呂が口元を手で庇いつつ驚いて繰り返すと、浩太は意外にも真剣な表情を浮かべている。 「だってヒロせんせい、マキ先生の患者さんなんだろ!」  思わぬ返しがきて、比呂は思わず右手をヒラヒラと振って否定する。 「違う違う!」  思わず声を張り上げてしまい、再び咳に見舞われる。  ゲホゲホゲホゲホ! 「ほーら」と浩太は我が意を得たりとドヤ顔を浮かべたが、比呂も諦めない。 「だ、って……浩太くんが言う……『マキ先生』は、小児科医じゃないか。隣の槇医院の若先生……でしょ?」  そのように息も絶え絶えながら主張する。 「僕は小児科じゃないもん」と比呂は否定したが、浩太は驚くべきことを言った。 「だって〜、大先生とマキ先生がそう言ってたし〜!」 「はあ?」  子供が言う「大先生」は、比呂の母親を指す。そんな情報を子供にしてどうするのだと、比呂は母親を恨めしく思う。  それ以上に腹立たしいのは「マキ先生」こと、槇貴之だ。隣の医院で小児科医をしている、同学年の比呂の幼馴染。 「もう、あいつー!」  思わず本音も漏れるというもの。何も子供に言うことないじゃないか!  するとその大声にまた反応してしまいゲホゲホと重い咳が出る。ナミが背中をさすってくれる。浩太からは、無理しないで先生のところに行きなよ〜と大人びた口調で言われてしまった。
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