砂糖少女

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砂糖少女

 ――砂糖少女とは、砂糖で出来た少女である。  果たしてその定義は「甘味」だろうか、それとも「少女」だろうか。  ルミは大学のゼミで知り合った女の子だった。  大人しくて穏やかで、可愛いしまあ押せばイケるんじゃないかって、下心で近寄ったのが歓迎会の時。話してみると思いのほか趣味が合って、すごく楽しくなって気が付けば本気で惚れていて。体裁なんて気にする余裕も無く、なりふり構わず告白して付き合ってもらったのが、ほんの半年ほど前。  大人しくて穏やかなルミ。けれど実は、芯がしっかりしていて自分の意志を曲げない、強い女の子だった。他人に何か言われてもそう簡単には気持ちは変えないし、穏やかな口調でいてもしっかりと自分の意見は話す。俺はといえば、周りの言葉に流されてばかりで、ルミの話にいつも自分の考えを変える、フラフラした奴だ。  ルミは可愛いし、優しいから色んな人に好かれて、いつも俺ばかりが落ち着かなかった。いつかもっといい奴に、つれて行かれるんじゃないかと心配でたまらなかった。俺が無茶言って無理やり付き合わせているだけで、本当は俺なんか好きじゃないんじゃないかって、いつも不安だった。こんな子供みたいなことを言う俺に、ルミはいつでも優しかった。  自分の嫌いなところはよく目につく。ルミは、人のいいところはよく見えているのに自分のいいところはわからないの?と言ってくれた。けれどいいところなんて全然ないし、だからこそ、そんな俺にルミを付き合わせているのが申し訳なかった。  なんとかしてルミに喜んでほしくて、とりたての車の免許を見せて、クリスマスにデートの約束を取り付けた。紅茶が好きだと言っていたから、気に入ってもらえるかとお洒落なティーセットのプレゼントも用意した。少しはいいところを見せられたらいいなって、俺と一緒で良かったなんて、少しは思ってもらえないかなんて、らしくもなく浮かれていた、12月の終わりごろ。  人は期待するとき、それが当たり前に起こると思い込んでいる時がある。そして、起こると思い込んでいた事柄が起こらなかった時、裏切られた、と反射的に感じてしまうのだ。  待ち合わせの場所に向かう途中、ぽっかりと真っ暗な夜空を見上げて、さっきからチラチラと降り始めた雪を信号待ちしながら数える。イルミネーションや飾り付けの綺麗な通りの店も眺めていたら、男といるルミを見つけてしまった。他人の空似かと、数度確認し直す。後ろ姿では相手の様子はよくわからなかったけど、楽しそうに笑いかける彼女はいつもよく見るあの笑顔で、あー、と俺は車の中で声を漏らす。俺は、誰にでも向けられる彼女の笑顔を、独占出来ていると思い込んでいただけで、彼女にとって特別でもなんでもなかったのか、なんて。  後頭部をガツンと殴られたような心地で、そのまま俺は待ち合わせの場所にも行かずにさっさと自分の家に戻ってしまった。この寒い中、彼女を待たせてしまうことへの罪悪感も無理やり振り払って、プレゼントの綺麗なラッピングされた箱も奥へとしまって、時々鳴る通知も全部無視して、子供みたいに一人で膝を抱えて、被害者のフリをした。  気がついたらいつの間にか眠ってしまっていたようで、かなり高くなった日が窓から射していた。夜中にかなり溜まったメッセージをようやく開き、ルミの名前が沢山並ぶ中に、友達の名前を見つける。 『ルミが連絡取れないって焦ってるぞ、何かあったのか』  僕がへそを曲げた理由を、ルミは必死になって考えればいいとか、子供じみたことを考えていた自分を恥じながら、それでも自分は悪くないと事の顛末を彼に送る。すぐに既読がついて、そしてしばらくしてからまた返事がきた。 『アホ。ちゃんと顔見て話しろ』  アホ、と罵られてヒヤリとした。なんで俺が怒られているんだと、苛立ちも同時にやってきた。その後、すぐにルミからの新たなメッセージが届く。 『ケンイチが、私が浮気したと思っていると聞きました。 身の潔白を証明したいので、話をしてくれませんか』  ひどく冷静な、いつもの穏やかなルミの口調だった。きっとルミのことだから、きちんと理論立てて、責める事無く説明をしてくれるのだろうな、その準備があるのだろうなと思いながら、今は言い包めてくるのであろう彼女の話を聞きたくなくて、もう一度布団をかぶって返事を保留にする。  通知のランプが点滅するのを眺めて、妙な焦りだけが募る。自分に味方がいなくて、自分だけが取り残されていくようで居心地が悪かった。そのうちにどうせ、全部自分が悪いんだろってふて腐れて、面倒くさい俺になる。それもわかっているから話もできなくて、返事をする気もないくせにメッセージを眺める。 『今日は会えませんか。 また時間ができたらお返事ください。待っています』  優しい口調なのに、どこか怖くて尻込みしてしまう。情けない自分が嫌いで、眠気も無い癖に目を閉じる。どうしたいのかすらわからなくて、ぐちゃぐちゃになった思考を無理やり閉じる。眠気も来ないのに布団を被って、だらだらと下らない休日を浪費する。  明日話せばいいや。それができなければ、明後日でも。  そんな考えでいたことを、俺は酷く後悔している。つまらない意地だったと今も悔いている。当たり前に浸かり過ぎていたんだ。当然だったはずの明日は誰かに保障されているわけじゃない。わかっていたはずなのに、忘れてしまっていた。そのことが、今も胸に暗い影を落とす。  ルミは、あくる日に亡くなっていた。交通事故だと聞いた。馬鹿みたいなプライドを抱えたまんま、昼まで寝過ごした俺の元には的を得ないメッセージが羅列していて、やっと内容を理解した後も、ドッキリでもしてるのかとまともに取り合わず、ルミにだけ返事を送ってまた布団に潜り込んでいた。あの日の自分を殴りたい。あの日だけと言わず、今もよく自分が嫌になる。  ようやく重い腰を上げて現実と向き合った時に、間に合うものは何一つなかった。話をすることも、謝ることも、ひっぱたかれてフラれてしまうことも、プレゼントを贈ることもデートをやり直すことも、何も出来なくなっていた。病院にも葬式にも、行くことができなかった。現実味のなさに涙も出なかったが、代わりに外に出て現実を知るのも怖かった。わけもわからず、置いてきぼりにされたなんて言いながら自分は、動こうともしなかっただけだった。  ともすれば砕けてしまいそうな心を、かろうじて大学での勉強やバイトで保っていただけの生活も、ついには崩れていった。引きこもって、何にもならない愚痴をこぼすだけの俺に、心配してくれた友人やバイトと仲間も、やがては距離をおいていった。  冬が明け、春休みに入っても俺は変わらず部屋の真ん中に寝そべり、動くのも億劫でこのまま干からびるのではないかと思うほど、怠惰で気力のない生活をだらだら続けていた。そんなことしてルミが喜ぶのか、なんて説教も届いた。けれど俺は、ルミを喜ばせることなんて一つも出来なかったし、これからできることも無い。俺には何もない。  そんな生活を砕いたのは、ある時俺の部屋に届いたひとつの郵便物だった。 「砂糖少女……? 」  通販をした覚えなんて勿論ない。ついでに差出人も空欄になっていて、思い当たる節も見当がつかない。首を捻りながら小包を開ければ小さな手紙と、薄いピンク色の包装紙に包まれた細工の細やかな人形の形をした砂糖菓子が入っていた。2枚ある手紙の片方を開くと、可愛らしい文字でこう書かれていた。 "ケンイチ様、 この砂糖少女は貴方の恋人から生まれました。彼女のことを覚えているならどうか、この味を愛でてください"  ただの悪戯なら、差出人の不明な郵便物なんてこのまま、ゴミ箱に捨てているところだ。が、驚くことにその手紙は、懐かしい彼女の文字で書かれていた。期待と困惑、焦燥の入り混じった不安から震える手でリボンを解き、中身を恐る恐る取り出す。迂闊に触れれば壊れてしまいそうな、精密な砂糖菓子人形。手のひらにのせてまじまじと見つめれば、それはルミを生き写したかのような可愛らしい少女の姿をしていた。  「ルミ」と、思わず名前を呼んでしまう。  すると俺の声に応えるかのように、砂糖でできたパステルの瞳が瞬きをして俺を見つめた。ケンイチ、と、ぱっちりとした二重を細め、溢れてしまいそうな笑顔で俺の名前を呼ぶ。ああ、それは確かに生前の彼女そのもので。  両手で彼女を支えたまま、俺は声も出せず泣き崩れてしまった。砂糖の彼女を崇めるように掲げ、その場にうずくまり嗚咽を漏らせば小さな彼女が何度も名前を呼ぶ。ケンイチ、ケンイチ。泣かないで、と。  顔を上げれば、砂糖は湿気に弱いのよと笑う彼女があまりにも不思議で、あまりにも懐かしくて、鼻をずるずる啜りながら歪んだ視界で彼女を見つめた。ルミ、と呼べば懐かしい声と笑顔が返ってくるのに、目の前にあるのは小さな砂糖でできた人形で、香りはかつてのルミの好きだった香水を思い出させるのに、ともすれば甘味料独特の、甘い匂いにもなる。ルミなのに、ルミではない何か。その不思議な光景に俺は、これが夢なんじゃないか、夢なら納得だ、会えてよかった。けれど砂糖菓子でなくてもよかっただろ、なんて考えてみたりする。 「ケンイチ、あのね、」 「甘いもの、好きだったよね」 「あのね、砂糖少女って知ってるかな」 「私ね、ケンイチにもう一度会いたくてこの姿になったの」 「ケンイチに会いたかったから」  小さな優しい声が部屋に響く。懐かしくて、もう随分と遠い昔のことのようだけれど、耳に馴染んだよく知った声で。こみ上げる嬉しさに頬が緩む。話し半分に頷いていたら怒られた。大事な話なのよ、と頬を膨らませるところも同じ。懐かしくてまた笑ってしまう。 「ちゃんと聞いてほしいの」 「これからまた、一緒に居られるんだからいつでも聞くよ」 「……違うのよケンイチ、一緒には居られないの」 「どうして。湿気まだ気にしてんの? 」 「そうじゃないの。私は一度死んでるでしょう。だから、本当はもうケンイチに会うこともできなかったの。最期のお願いを、神様にきいてもらっただけだから、私には時間がないの」  よーくきいて、と悲しそうにルミは言った。 「……嫌だ、聞きたくない」 「ケンイチ、 」 「一緒にいればいいだろ。大事にするから、ここにいてよ」 「違うの、ケンイチ」 「違わない」 「ケンイチ」 「ルミ、大好きだよ。もう何処にも行かないで」  一度は止まった涙がまた溢れる。折角会えたのに、また別れるなんて嫌だ。そんな話聞きたくない。何でそんなひどいこと言うの、ルミ。  ルミは哀しそうに眉を下げ、何も言わずにルミはじっと見上げている。また生前と変わらない、子供じみた言い分をしていると、はっと我に返る。 「……ケンイチ」 「折角また会えたのに、そんな話したくないよ」 「……私の言葉を聞いてくれないのなら、私が死んだときと何も変わらないよ」 「ルミは、サヨナラするために会いに来たのか? 」 「そうよ」 「……」 「酷いと思っているのね?でも、サヨナラもできずに離れ離れになった、私の気持ちもわかってほしいの」  当たり前だったはずの日常が壊れたからこそ、わかる。話したいことも話せなくなる事は、どんなに悔やんでも悔やみきれない。それはきっと、ルミも同じだったはず。あの時のメッセージにちゃんと返事をしていれば、ルミだってこんな姿で現れなかっただろう。  大人にならなきゃ、いいところを見せたかったんだろ、と、きゅっと眉間に皺をよせながら俺は頷く。 「どうせ居なくなってしまうのなら、いつか忘れられてしまうのなら、何も変えられないのなら、貴方を苦しめてしまうとしても、貴方と一緒がいい。そう、願ったの。それが、今の私」  包装紙の中にあった、もう一枚の手紙、砂糖少女の「説明書」の紙を小さな体でルミはこちらに差し出した。書かれていたのは、砂糖少女とは砂糖で出来た女の子であること、紅茶によく合うこと、賞味期限、取扱いの注意書き、そして愛情を与えるほどに甘くなるという性質のこと……。吐き気がするほど“モノ”として彼女を扱う言葉の羅列に怒りを覚える。 「ケンイチ、紅茶は好き?あの日に買っておいた、私のお気に入りの茶葉も一緒に入れてもらったのよ」 「……あの日? 」 「ケンイチがデートに誘ってくれた日。あーあ、楽しみにしてたのになあ」 「……ごめん」 「いいの、友達と一緒にお店で選んでもらってたんだけど……男の人へのプレゼントって、初めてですごく悩んじゃって。でも、当日にそんなところ見せたのも、よくなかったよね」 「ちゃんと……話、聞いてたらよかった」 「そうだね、悲しかったし……。じゃあ、今度は私のお願いも、聞いてくれる? 」  うん、と頷くと、独特のあの甘い香りをふわりと広げてルミが笑う。箱の奥に入っていた茶葉の袋を開けて、と可愛らしくねだるので、言われるがまま開く。嗅いだことのない匂いだったけれど、優しくてきっと、ルミの一番好きなものはこういうのなんだろうなって、すぐにわかった。  あらかじめ準備してあったパック用の袋に詰めて、紅茶の淹れ方をルミに習う。カップを先に温めて、ミルクは後から入れてもいいけど温めないように、とか。そんな話を聞きながら準備をしているうちにはた、と、ルミの意図に気が付いてしまう。 「ルミ」 「なあに? 」 「俺に、紅茶飲ませる気? 」 「紅茶、嫌いだった? 」 「そうじゃなくて、ルミのこと」  続きをなんとなく口にできなくて、説明書の一文を指さす。ああ、とルミは呟いて、少し見上げてから、困ったように笑った。 「……俺に、ルミのこと殺せって? 」 「……」 「紅茶に溶かして飲んでくれって、そう言うつもり?お前を紅茶にいれたら、溶けちゃうって書いてるのに」 「……優しいね、ケンイチ」 「……残酷すぎる。俺、ルミが事故に遭ったってとき、葬式にすら行けなかったんだよ」 「見られたくなかったから、いいよ」 「……何なの、砂糖少女って」 「貴方に全身全霊の愛を伝える、私の最期の姿だよ」  説明書がよれよれになるほど握りしめて、必死に別の方法がないかと小さな文字を追う。けれど、日々劣化していく体は長くもたないこと、せめてその瞬間は綺麗な記憶のまま自分を留めてほしいと訴える彼女の目に、いよいよ他に選択肢もないことを知る。どうして、もっと話がしたいのに。謝らせて。あの日のやり直しをさせて。どれだけ責められたってかまわないから。  せめてあと一日くらい、と述べかけて、ルミの力強い瞳に口を閉ざした。 「……わかった」 「ありがとう」 「ただしひとつだけ、ごめん。……俺、猫舌だから」 「……ありがとう」  せめてもの、悪あがき。それは苦しみを長引かせるだけかもしれないけれど、それでも。  ルミに指示をもらいながら、あの日渡せなかったティーセットに丁寧に紅茶を淹れていく。素敵なカップ、と嬉しそうなルミに何も言えないまま、優しい香りの湯気に氷を二つほど足して解けるのを待つ。 「なんだか、恥ずかしいね」  溶けない小さな衣服は脱ぎ捨てカップの縁に身体を隠して笑うルミ。きめ細やかな砂糖の肌を、琥珀色のぬるま湯に沈めていく。 「……辛くない? 」 「大丈夫よ、熱いとか冷たいとかはわかるけど、痛みはないみたい。でも、髪が溶けちゃうのは嫌ね、先に頭がつるつるになっちゃう。」  何か言いたくない言葉を誤魔化すときの、クスクスというルミの笑い方。それは苦痛か不安か、それとも恐怖か。そんなことすら考える間もなく小さくなる身体。ゆらゆらと彼女の身体が、琥珀に波を残していく。刻一刻と迫るタイムリミットに慌てて言葉を探すのに、喉からは掠れた呻き声しか出てこない。それなのにルミは、とても静かにお別れを始めた。 「ケンイチ。私ね、貴方にサヨナラをきちんと言いたかった」 「一人で寂しく、このまま死んでしまうなんて嫌だって」 「謝りたかったし、もっと伝えたいこともたくさんあった」 「悲しくて、でもそれ以上に、ケンイチが心配で」 「私ね、貴方が大好きなの。だから貴方のそばにずっといるわ」 「ちゃんと全身全霊で伝えるから。大丈夫。心までは溶けてしまわないもの。ずっとケンイチのことを見守ってる」 「ケンイチは、幸せになってね。私、ケンイチの子供に生まれ変わってまた会いに来るから」 「パパ大好きー、って言うから、たくさん甘やかしてね」 「そうしてまた、ずっと一緒にいるの。反抗期もあるからよろしくね」 「だから、こんな部屋で干からびてる場合じゃないよ。ケンイチ」 「愛してるわ、ケンイチ」  饒舌な彼女の笑顔がゆっくりと琥珀に微睡む。消える間際、ありがとうと喉から振り絞って伝えたのは届いただろうか。夢のような一時、ほんとうに白昼夢でも見ていたかのような心地だ。目の前の既に冷めきった紅茶に、ゆっくりと口をつける。 「……全然甘くないな、しょっぱいくらいだ」  ふて腐れたようにまるで塩少女、と笑えば、窓に夕暮れの淡い光が差し込む。久々に光を見たような、現実味のない幻想的な色が揺らめいていた。
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